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 入学式が終わってクラス分けされた教室は雑踏に満ちていた。誰が何を話しているかは聞こえないけれど、ざわついた喧騒は確かに感じられた。

 耳に届くノイズよりもそれは室内を満たす空気感とでもいうのだろうか。七瀬は出席番号順に並んだ自分の席について、辺りを伺った。

 西野の苗字は教室の中頃の一番後ろの席順だった。隣の席でたむろしている女子は知り合い同士だったのだろか楽しそうに笑い合っていた。

 彼女たち以外にも数名で集まっている者たちはいくらかいた。同じ学校からの友達同士なのだろうが、もともと顔見知りが少ない七瀬にとっては特に抵抗を感じる事はなかった。

「ねえ、昨日の観た?」

「観た! 最高だよね」

 七瀬は忙しなく動く周囲の唇に視線を巡らす。読み難い彼女たちの唇を読む。

(話しに加わりたいけど、止めておこう)

 七瀬は声を出す事ができる。普通の発声も練習したし、言葉も話せる。コンピュータの画面で舌や唇の動きを立体に見ながら練習する方法で覚えた。

 しかし、どうしても自分の声を自分で聞き取る能力が欠けているから、たどたどしい発声になってしまう。だから彼女はあまり誰かと話すのは得意ではない。

「ねぇ、あなた二中でしょ?」

 不意に後から肩を掴まれた。慌てて振り返った七瀬は言葉を出そうと口を開いたが、それを喉の奥に仕舞い込む。微かに声は聞き取れたが彼女が何を言ったか解らない。後から声をかけられると、七瀬は唇を読む事もできないので一番難儀する。

「二中だよね? あたし、何回か見かけたよ」

 肩に掛からない程の淡い栗色の髪の娘が愛想よく笑っていた。今度は何を言ったのか七瀬にも解ったが、彼女の声も七瀬には周囲の雑音とさほど変わらない音に聞こえる。

 とりあえず笑顔を返して、2度3度頷いた。

「あたし、高山一実。よろしくね」

 七瀬は再び頷く。言葉が出ないかわりに、手が微かに動いた。咄嗟に手話が出そうになる。

 でも、高校生の健常者で手話のできる娘なんていないるはずない。そう思って、動きそうな右手にブレーキをかけた。

 その時、一実も後から誰かに肩を掴まれて、そのまま後に引っ張られた。

「バカ。あの娘、特級の娘だよ」

 長い髪を揺らし、スラリと背の高い娘が言う。短めのスカートから覗いた足が竹のように細い。でも、モデルのような体型だった。

「特級?」

 一実は聞き返した。

「特別学級だよ」

「うそ」

「見た事あるのよ」

「だって、普通だよ」

「ギリギリなんじゃない?」

 七瀬は彼女たちの唇を読んで、自分の笑顔が消えるのを感じた。

「ギリギリって?」

「さぁね。そこまでは知らないわ。・・・・・・案外、頭の中とかね」

 髪の長い娘は冷ややかに笑った。黒々とした長い睫毛が誇らしげに瞬きする。



 確かに特別学級には障害の為に学力的に難しい生徒もいた。しかし、病気で身体の弱い生徒もいる。転校して行ったひとつ上の学年の子は入退院が多くて授業についていけない為に、特別学級にいた。

 普通の生徒と一緒にいられない子供たちが一緒くたに詰め込まれるのが特別学級だった。健常者から隔離され、社会性に欠ける異端児たちは離れ小島のような別棟に在る小さな教室に押し込められた。

 実際の学年がバラバラだから、運動会や遠足の行事には臨時に同じ学年に加わる。しかし、溶け込めるわけが無い。何時も担当教員に付き添われた。同じ学年の子供と一緒に遊ぶ時間の猶予は与えられなかった。

 いじめられるとかわいそう。他の子供たちについていけないと、大きなストレスを生む要因になる。

 大人たちはそう言って、分け隔てを当たり前に思っていた。差別しないように差別する。その矛盾こそが、七瀬を苦悩の呪縛の渦に留めた。