文字サイズ:
教室に入って来た担任教師はゆっくりと自分の名前を黒板に書いた。

 松井玲奈

 ベージュのパンツスーツに黒髪を後ろで束ねてバレッタで留めている。足元は白の運動靴だ。女性らしくあり、教師らしくもある質素な出で立ちだ。

 まだ20代であろう女性教師はゆっくりと喋る。その唇は七瀬にとってとても読み易いものだった。

「今は34人ですが、明日もう一人仲間が増えます」

 教師はそう言って笑った。

「入学式には間に合わなかったみたいね」

 教室がドッと沸く。

「新入学なのに、どうして転校生なんですかぁ?」

 長い黒髪の娘が言った。一番後ろの席にいる七瀬には唇は読めなかった。

「本当は他の高校に手続きしていてみたいだけど、急遽この町に越してくる事になったの」

 松井は微かに笑って周囲を見渡す。

「だから、書類上では転校になるの」

 ふと気付くと一実が七瀬を見ていた。笑うでもなく、限りなく無表情に近い眼差しだった。でも、七瀬は先生の唇を読まなくていけないから、直ぐに視線を松井に戻す。

(好奇の眼差し? ギリギリの知能って思われているのかな?)

 七瀬は担任の話す言葉を読みながら、遺憾な思いに駆られるのを感じていた。


「どうだった? 学校」

 家に帰ると母親が買い物から帰った所だった。冷蔵庫に食材を詰め込みながら、七瀬を見ている。

「解んない」

 七瀬は短く応える。家族の前ではトーンがおかしくても気にならない。言葉と言葉で会話が出来るのは今のところ家族だけだった。

 母親も父親もそして姉の奈々未も手話ができる。七瀬が発音の勉強をする前は、ずっと手話で会話してきたが、今ではできるだけ声を発してコミュニケーションをとっている。

 そうは言っても、急いでいるとついつい手話の方が速かったりもする。

 そんな家族の中でも母親はなかなか手話を覚えられずに苦労した。仕事人間の父親は意外な事に呑み込みが早く、姉の奈々未はあっと言う間に七瀬と会話を堪能していた。

 娘の為なのに・・・。

 母親は親として不甲斐無い自分に初めてジレンマを感じるほどだった。そんな彼女も今ではボランティアで手話教室の講師をし、点字図書なども手掛ける程になっている。

「なによ、解んないって。友達できそう?」

「解んない」

 七瀬は再び応える。投げやりではない。本当に解らないのだ。みんながこれから自分にどう接してくるか、初日だけでは解らない。


「でも、大丈夫だよ。心配ないよ」

 七瀬は曖昧な笑みを浮かべて途切れ途切れに言った。