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小嶋真子 『寝坊』

「遅刻しちゃう!」


 就寝をしていた部屋から飛び出した真子は大声を上げてから洗面台に向かって駆けていく。自宅ではないもののスムーズに洗面台へとたどり着くと、あの廊下を歩くのはもう何度目になるのだろうかとぼんやりと考えながら洗顔を済ませた。

 リビングに戻ると手際良く朝食を作る男の姿が目に留まる。普段ならば起床した時には出来ているはずの朝食が完成していないことに加え、自らが慌てて横を通り過ぎたのにも関わらず黙々と作業を続けていることに真子は苛立ちを覚えた。


「何で起こしてくれなかったの!」


 真子の怒鳴る声にも動じない彼は相変わらず口を開くことなく食器の用意を進めていく。男が真子の方に目を向けたのは朝食の盛り付けを全て終えた後だった。


「何をそんなに怒っているんだ。あとは髪の毛、跳ねているぞ」


 真子からの怒りの声もどこ吹く風といった様子で男は配膳を進めていき、全てをキッチンからリビングのテーブルへと運んだ後にようやく彼が口を開く。舌を出して悪態をついた真子は髪を直すべく再び洗面台に立つと跳ねている髪を手櫛で直し始めた。焦る彼女の心境とは裏腹に髪の跳ねは強く、数回手櫛を通しても元の位置へと戻る。真子は泣きそうになった。


「もうっ、なんでこんな時に限って……」


 涙目になりながらも真子は必死に髪を梳かす。鏡に映る思い通りにならない自分へと愚痴を溢していると遅いことが心配になったのかキッチンに居たはずの彼が真子の元を訪れる。手に櫛が握られているのを見た真子はそれを取ろうとするが彼はそれを届かない位置へと掲げる。真子は不満そうに口角を下げながら櫛を持つ相手へと背中を向けた。


「遅れたら、どうするんですか」


「さっきから苛立っていたのはそれが理由か」


 急ぐことよりも怒りの感情が勝ったのか、はたまた間に合わないと開き直ったのか先程までの行動が嘘のように真子は落ち着いていた。発する言葉によって真子は苛立ちを露にしながらも、後ろから櫛で髪をゆっくりと梳かす彼へと身を委ねる。


「今日の集合時間は変更になっただろう。収録の合間にスタッフが連絡していたではないか」


 彼の言葉を受けて真子ははっとする。昨日の撮影中にスタッフからの連絡があったことが彼女の脳裏へと鮮明に思い出されるが、撮影を終えた後のことが気掛かりになっていた真子はそのことを完全に忘れていた。

 真子が唖然としている間に跳ねていた跡は無くなり、いつも通りの真っ直な髪へと戻る。櫛を流し台へと置いた彼は確かめるように真子の髪へと指を通した。


「あの……ごめんなさい。私が一人で勝手に勘違いしてたのに」


 髪と指先とが交わりが無くなったのを感じ取ってから、真子は申し訳無さそうに振り返った。自らの勘違いによって相手を責めた罪悪感からか目にはうっすらと涙が浮かぶ。

 彼の指が真子の涙を拭った後、掌が頭へと重ねられると慰めるように柔かく弾む。言葉を介しない彼からの優しさに真子は小さくはにかんだ。


「朝食を冷める前に食べなくては。食べた後には嫌な事もきっと忘れる」


 頭から手が離れたのを名残惜しそうにしていたが、朝食の話が出ると真子は力強く頷く。先行して戻る彼へと腕を絡ませると、歩幅を合わせてリビングへと戻った。


           ☆


 全ての支度を終えた真子はリビングの椅子に座り時間が来るのを待つ。そこに洗い物を済ませた彼が向かい合う形で座ると彼女はにこりと笑顔を向けた。

 昨日の撮影での話を中心に会話を行っていたが、予定の時間が近くなった為か彼が椅子から立つと真子もそれに釣られるように立ち上がった。


「今度はいつになるかなぁ」


「頻繁に来るものではない。今回はどうしても場所が無かったというから泊めただけだ」


 充実した時間が過ごせたことに真子は浮かれていたのか、わざと相手へと聞こえる声量で呟く。しかし彼女の期待は出掛ける用意を進める彼の一言によって儚くも消え去った。見向きもしない彼の態度に先程まで緩みっぱなしだった真子の口元も今では再び口角が下がった状態になる。

 何とか振り返って貰いたい真子は彼の元へとぱたぱたと駆け寄り服を掴む。一旦は視線を向けられるが、再び彼は作業へと目を戻した。


「何でですかぁ。せっかくこんな関係に……」


「こんな関係?彼女にでもなったつもりか?」


 子供のように相手の服を何度も引っ張りながら真子は自らを主張するが、全く動じない彼からの冷たい言葉に彼女は握っていた服を手放す。余程のショックだったのか真子は俯きながら先程まで座っていた椅子に向かうと力無く再び腰を下ろした。

 服を引く感覚が無くなったためか後ろを振り返ると椅子に座りひちひしがれている真子が目に入る。彼女の元に近付くとしゃがみ込んで落胆している相手と目の高さを合わせると、真子も視線を隣に来た彼にゆっくりと移す。


「覚えているな、約束は」


 真子は小さく頷く。悲しみが薄れクリアになり始めた彼女の頭の中では自らの想いを告げた日の事が自然と思い出される。

“グループを卒業してから一人の女性としての認識を持つ”

 半ば諦めながらも想いを告げた真子にとっては充分過ぎる結果だった。しかし数日が経過し興奮が落ち着くと、交わした約束に次第に不安を抱き始めた。


「だって、それっぽいこと何にもしてくれないから……心配で」


 受け入れもしなければ拒否もしない。そして約束を交わしてからも自らとの接し方に何の変化も無い。それだけではなく彼はグループ内の重要人物であり、多くのメンバーから慕われている事が真子の不安をより一層大きくした。

 弱々しく吐露した彼女の言葉がそうさせたのか、彼もまた先程の椅子へと座る。彼からの真剣な雰囲気を感じ取った真子も居住まいを改めた。


「グループに在籍しているんだ、両想いになってはいけない。自分だけではなく、私の想いも少しは察して欲しいものだな」


 何を言われても平常心でいよう。そう決心していた真子であったが初めて耳にした相手の心境に目をぱちくりとさせる。彼の言葉の意味を頭で理解した時には膨らんでいた不安は小さくなり、代わりに安堵と喜びで満たされていくのを真子は感じた。

 

「それ、どういう意味ですかぁ?」


 何事も無かったかのように彼は準備を再開すべく席を立つ。嬉しさを抑えきれない真子は相手の背後へと忍び寄ると後ろから腕を回した。身体を密着させたまま、彼が準備を進める様子を真子は後ろから眺める。

 しばらくして用意が済んだことを確認すると回していた腕を外し相手から身体を離す。振り返った彼と目が合うと真子はにやけ顔のままほんのりと熱の籠った頬を両手でおさえた。


「そろそろ時間だ。切り替えろ、真子」


「はい!じゃあ……行ってきます、先生」


 浮かれていた表情を払拭するように左右に首を振った後、深く呼吸を数回繰り返してから顔を上げる。その際に笑う真子の表情は先程までの浮わついていた面影は一切無く、屈託の無い笑顔を彼へと見せた。