「日芽……」
自らが探す相手の居る部屋を開けて名前を呼び掛けるが、粛然とした雰囲気に彼は口を閉ざす。その視線の先には小さな日本庭園を一望できる和室に1人で座り、抹茶を点てる日芽香の姿があった。
名前を呼ばれた彼女は一瞬男の方を見るが、直ぐに作業を行う手元へと視線を落とす。その後彼女は抹茶を点て終えると、訪れた相手に深く頭を下げてから完成したそれを差し出した。
「すまないな、頂こう」
彼女の元へと歩みより静かに畳へと座ると、作法に従って目の前に置かれている抹茶へと口をつける。その茶器が置かれるまでの間、日芽香は相手を無言のまま見つめる。茶器から手を離した彼は少し間を空けてから自らの視線を彼女の方へと送った。
「腕を上げたな」
「褒めてくれてるんですか?それって」
真剣な表情を見せていた日芽香であったが、彼からの単純な答えによって苦笑いながらもようやく固かった彼女の表情が和らぐ。それで落ち着いたのか先程彼が手にしていた茶器に自らも口をつけると、ゆっくり抹茶を味わうようにして一息吐いてからそれを静かに置いた。気持ちを切り替えるように居住まいを改めてから日芽香は軽く目を閉じると、暫くしてから目の前へと座る相手に視線を戻す。
「よく分かりましたね、私がここにいるって」
以前気持ちが落ち込んだ日芽香が相談を持ちかけると、彼から自宅を訪問することを勧められた。それの助言に従って一度訪れた後も、彼女は自らの気持ちを落ち着ける際にはこの場所を訪れていた。
しかし今回に関しては彼に連絡をしないままこの場合を訪問していた為に、自らが訪れていることを相手な知っていたために疑問が生じる。
「ああ、言伝を受けてな」
彼の答えを聞いて日芽香は数回小さく頷く。突然の訪問にも関わらず彼の母親は和室を使用する事を快諾した。そんな自分を心配に思った彼の母親が相手へと連絡をしたのだろう、と日芽香は一人納得をした。
「ここに居るだろうって予想されたのかと思っちゃいました」
彼は日芽香がどのような時にこの場所を訪れているかを知っていた。よって、彼女が意図せずともその予兆を見せていた場合にはここを訪れていることを推測できる。今回彼がこの場所に来ていることを知っていた理由に、日芽香は安堵しながら言葉を続けた。
「しかし、先程の発言だが……」
「あっ……あれは気にしないで下さい」
気持ちを切り替える為にこの場所を訪れて、抹茶を点てる。訪れる回を重ねる毎に日芽香の抹茶を点てる腕は上達した。
今回点てた抹茶を口にした彼からその腕を褒められた際に、日芽香は自然と訪れた回数が多くなっている事が頭に浮かんだ。
そんな事から先程出てしまった否定的な発言について彼から切り出されると、日芽香は慌ててそれを否定する。
「良いことではないか、頭の中を一度真っ白にして考え直すのは。茶道はただの副産物だ」
「ふふ、お母様に怒られちゃいますよ?」
彼は日芽香の胸中を察したのか、茶道の道具へと一旦目を向けるようにしてから告げる。しかしそれがおかしかったのか、日芽香がようやく表情を綻ばせると理由が分からない為か答えを待つ彼はまじまじと彼女の顔を眺める。
「前言撤回、としておこう」
楽しげな声色で述べられた答えに彼は暫く返す言葉を失っていたが、やがて観念したように額を抑えながらやむなく訂正する。彼の様子を見てくすくすと笑っていた日芽香であったが、その後に茶器を何気無く手に取ると中に残っている抹茶へと視線を落とした。
「でも、抹茶って私の中の乃木坂とよく似てるんです……力が無さすぎると上手く混ざりきれないし、力入れすぎちゃうと苦くなっちゃって。ふんわり、甘い感じを残すにはちょうど良い力の加減があって」
抹茶を茶器の中で揺らすようにしながら、それをぼんやりと眺める日芽香は告げていく。静かに耳を傾けていた彼であったが日芽香の思い悩んでいる様子に見兼ねてか、彼女が手にしていた茶器を自らの手元に移動させる。突然の事に驚いた日芽香は顔を上げて行動を起こした相手に視線を送った。
「苦い?」
「ちょっと、昔はやり過ぎちゃったかなぁって。苦い思い出というか……」
相手から促されると、過去に行ってきた自分自身の言動を思い出して日芽香は苦笑いを浮かべる。その顔を見た彼も日芽香の一昔前のキャラクターを思い出したのか納得したように頷いた。
その後、彼は何を思ったのか1つ咳払いをする。
「乃木坂1の甘えん坊で、寂しがり屋な……」
「もう、意地悪言わないで下さいっ!私は真剣なのに」
彼が突然口にした自身の初期のキャッチフレーズを聞き、日芽香はあたふたとしながらそれを中断させる。恥じらいと腹立だしさの入り雑じった複雑な感情を抱いた彼女は、頬をわずかに膨らませてそっぽを向く。
「気に障ったならばすまない。しかし、全力でも良いじゃないか。確かに甘みが残れば受け入れ易くなる。だが、苦味が強ければ相手には深く残る。快不快は別問題だろうが、日芽香達の職柄で相手に深く残る事は大きなメリットだろう?」
彼は簡単に謝罪の言葉を述べると、その後は淡々と自身の見解を口にしていく。穏やかな声で勧められる話に納得のいく部分がある為か、日芽香は静かに耳を傾けながら相槌を打つ。
相手からのまじまじと見つめる視線に自らが話し過ぎたと感じたのか、彼は話を中断してからもう1度咳払いをした。
「とにかく苦かろうと甘かろうと、それが日芽香の味だ。その味を口に合わせてくれる人間なんて極稀だろう。受け入れてくれるのはその味が味覚にぴったりと一致した人間か、その味に慣れてきた人間なのだから。」
相手の話に日芽香ははっとする。無理に好きになって貰ったところでそれにはなんの意味もない。大切なのは自らの魅力に気付き、夢を応援してくれる人達に喜んでもらうことだと改めて実感した日芽香は真っ直ぐに彼を見ながら力強く頷いた。
「日芽香の味……なんか恥ずかしい……えへへ、先生はやっぱりお母様みたいに優しいですね。きっと、先生なりの励ましなんですよね?」
抹茶の点て方を教えてくれた彼の母親は落ち着いており、言葉の1つ1つから温かみを感じた。普段は冷静すぎる程の彼ではあるが、先程の主張から相手の母親のものと似たような温かさを感じ取った日芽香は嬉しげに頬を緩めた。
「さあ、どうだかな」
母親の話が出ると彼はばつの悪そうな様子で答えをはぐらかす。しかしながら楽しげに笑う彼女を見て認識を覆す事が困難であると察した為か、小さくため息を吐くと日芽香から目線をそらした。
「けど、ひめは苦くないんです。とおーっても甘いんですから」
その直後、ふんわりとした甘い香りが彼の鼻孔をくすぐる。視線を戻すと自らの胸元に頬を推し当てている日芽香が自らに密着し、その腕を背中へと回していた。うっとりとした目を向けて甘えるように告げる日芽香に、彼は頭を悩ませているように頬を掻く。
「あっ、ダメですよぉ。今のひめたんは誰のものでも無いんですから。先生からするのはダメです」
甘えてくる日芽香を受け入れようと彼も腕を回そうとするが、それを察した彼女は頬を彼の胸に当てたまま意地悪そうに相手へと告げた。釘を刺された為に行き場を失って彼の腕は宙を漂っていたが、やがて日芽香の両肩へと落ち着く。
「スイッチが入ったらみんなのものだから、と言うんだろう?」
「えへへ、大せいかーい。」
満足したのか日芽香が自らの身体から離れると、彼は飽きれ半ばながら問い掛ける。しかしながら彼女はそんな事を全く気に留めないような満面な笑みを返しながら相手へと答えた。
「表情が明るくなった。復活か?」
和室を訪れた時と比較して格段に顔色が良くなり、表情も生き生きとしている彼女に問い掛ける。その彼の安心している様子が伝わったのか日芽香は尋ねられた際に思わず広角が上がってしまうのを隠すべく、口元を両手で隠した。
「いつまでも、こうしてられませんから。スイッチオンしました!アイドルひめたん復活です!」
問われた日芽香はピースサインを相手へと見せながら満面の笑みを向ける。彼女の口から答えを直接聞き、心配が無くなった彼も小さく頷く。その際に目に留まった彼女のピースサインを見て、彼の頭には自然と1つの事が思い浮かぶ。
「では、いつものやっておくか?」
「えへへ……やだ」
何を要求されたのかを日芽香は瞬時に察する事が出来たが、彼女は悪戯っぽく笑いながらやんわりとそれを拒否した。