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衛藤美彩 『帰宅』

「あっ、おかえりなさーい!お疲れ様」


 男が帰宅したという事をドアの音で察すると美彩はにこりと笑顔で出迎える。彼の帰宅を出迎える際に毎回行っているように手を差し出すと、彼は手にしていた鞄を美彩へと渡す。その後、靴を脱いでから手を洗うという一連の流れを美彩は無言のまま眺めていた。

 帰宅後いつも行っている作業を終えて、彼はようやくここで美彩へと顔を向ける。


「すまないな、折角来ていたのに」


「ううん、お仕事だもん。仕方無いよ」 


 本来は2人共オフであった為に美彩は彼の元を訪れていたが、部屋で過ごして暫く経った頃にスタッフから仕事の手伝いをして貰いたいと突然連絡が入る。帰宅する時間が未定であった事から彼は美彩へと帰るよう促したが、彼女はそれを受け入れなかった。

 予想していた時間よりも大幅に遅くなった為に彼は謝罪の言葉を告げるが、美彩は再び首を左右に降ってにこりと柔らかく笑った。その後普段ならばリビングに向かうはずだか、美彩は彼の進行を妨げるように動かなかった。


「何だ?」


 違和感を感じる彼は理由を聞きながらも彼女をなんとか避けて通ろうとする。なんとか抜けることが出来たものの、美彩が服の裾を突然握った為に再び足を止める事となる。そんな美彩の顔にはどこか悪戯な笑みが浮かべられていた。


「ふふっ。実はね、お風呂たまってるんだぁ。美彩と一緒に、入ろ?」


「断る」


 美彩ははにかみながら甘えるような声色で告げるが彼は迷うことなく拒否をする。その際に握られていた裾が離された為に彼女を廊下に残したままリビングへと辿り着くが、すぐに目の前へと美彩が割って入ってくる。


「なんでー、この前は入ってくれたのに!」


 紅茶をいれる用意をしている彼の服を引っ張りながら駄々をこねるように美彩は訴えるが、彼は彼女に目すら向けずに作業を続けていく。彼が手に取ろうとした茶葉を横から美彩が取ったことによって作業を中断せざるを得なくなり、呆れたように息を吐いてから顔を彼女へと向けた。


「語弊のある言い方だな」


 どこか面倒そうに答えながら彼女が手にしている茶葉の入った容器を取り返そうとするが、美彩は伸ばしてきた彼の手からその容器を遠ざける。2度目に伸ばされた手からも同じように遠ざけると、彼は何かを言おうとするがそれを飲み込んで別な茶葉を取り出す為にキッチンの棚を再び開けた。

 別なものを手に取った彼を見て美彩は自らが手にしていた容器をキッチンに置くと、悪戯っぽい表情を見せながら彼へと視線を送った。


「じゃあ……ばらしちゃうよ、あれ」


 美彩からくすりと笑って告げられた言葉に、男はぴたりと作業を中断する。艶っぽい視線を向けられている事に気づいた彼は、紅茶の用意していた手を止めながら彼女の言葉に耳を傾けていた。

 自らの話を聞いてくれる姿勢を見せる相手に、美彩は満足そうに微笑む。


「良いのかなぁ?あーんなことしちゃったら、普通許されないと思うけどなぁ」


「今の状況もな」 


 数週間前、彼はメンバーがスタジオに向かった後に控え室に鍵をかける仕事を任された。施錠をする直前になって中から物音が聞こえた為、不信に思った彼は様子を伺おうと控え室を覗き込む。その視線の先には慌てて衣装を着ている美彩の姿があった。

 彼は謝罪しながらすぐに扉を閉めると、彼女が出てきた際にも改めて謝ろうと美彩が出でくるのを待つ。しかしながら控え室から出てきた彼女は何も言わずどこか艶やかな笑みを向けると、彼が謝罪をする前にスタジオへと向かっていった。

 その事件以降、美彩は口止めとして彼の部屋を訪れるようになった。それだけではなく彼女は自らの要望を述べる度にその事件について触れ、彼はその度に美彩の言われるがままに従った。


「分かってるよ……軽蔑されてることも、美彩のことが本当は嫌いな事も。けどね、私にはこうするしか無かったの。先生は……絶対に振り返ってもくれないから……」


 呆れたように告げる彼からの言葉によって耐え切れなくなったのか美彩は話題を切り出した時の自信ありげな様子から打って変わり、今にも泣き出しそうになっていた。良心の呵責に苛まれているのか美彩は俯いたまま自らの心境を吐露していたが、やがて涙が零れないように顔を上げた。


「自分に嘘を吐きながらこうしてまで満足なのか?」


 彼は静かに美彩の主張へと耳を傾け、相手が全てを話終えた後に再び小さく息を吐いた。先程の冷淡な声色ではなく穏やかな調子で彼女へと尋ねながら、彼はハンカチを差し出す。

 美彩は小さく会釈をしてからそれを受け取った。


「騙し騙しになってるのは美彩も分かってる。けど……良いの。先生と一緒にいられるなら、それで。」


 拭ったはずの涙であったが、再び話を再開すると抑えきれずに彼女の目が潤む。それが頬を伝いながらも美彩は何とか微笑むようにして自らの想いを彼へと伝えた。

 借りたハンカチを返すべく彼女から差し出されると彼は暫くそれを無言で眺めてから受け取り、胸元のポケットへとしまいこむ。


「周りに話したいならば勝手に話せ。私にとっては大した痛手にはならない」


 沈黙が続いていた中で男が突き放すように言うと、そのまま美彩の横を通ってリビングへと戻る。混乱している美彩は先程まで彼が居た場所を眺めていたが、やがてリビングに向かった相手へと詰め寄った。


「でも!先生はそれが困るからこうやって私の我儘も断れないで……」


「美彩の我儘だから断れなかったのではない。美彩の我儘だから断らなかったんだ」


 自らの想定していた流れとは異なりながらも思い通りに事が進んでいた事に疑問を抱く美彩は彼へと問い詰める。その問いが告げ終わらないうちに彼が淡々と返事をすると、その答えの意味ができない美彩は呆然と立ち尽くした。


「えっ?」


 時間差がありようやくその意味が理解出来てくると、美彩は驚居たように言葉を溢しながら口元を掌で覆う。信じられないといった様子で相手に目を向けるが、彼は視線を合わせることを拒むように彼女へと背中を向けた。

 再び美彩は泣きそうになりながら、心拍数が跳ね上がっている自らの胸を押さえた。


「脅迫だの強要だのされては、従う他ない」


「先生っ!」


 雰囲気に耐えられなくなった彼はその場から離れて暫く自らの自室へと閉じ籠ろうと逃亡を謀る。しかしそれを逃がすまいと美彩は背中を向けた彼へとぶつかるような勢いで飛び付き、後ろから手を回す。


「美彩のこと、好き?」


 しっかりと彼に手を回している美彩は自らの頬を彼の背中へと密着させながら、うっとりとした面持ちで彼へと尋ねる。彼の返答を待つ間、彼女は心地良さそうに目を静かに閉じた。

 彼は自らに回されている腕を外すようにしてから、美彩の方へと身体を向ける。しかしながら何も言わないまま踵を返すとどこかに向かって足を進め始めた。


「どうせ今日も背中を洗わせるのだろう、全く」


 その一言で浴室に向かっていると察した美彩はくすくすと笑ってから、急いで彼の前へと先回りをする。脇をすり抜けて現れた美彩によって、彼は進む足を止められた。


「前みたいに変な期待したら駄目だぞー?」


「別に何の期待もしていない」


 からかうように告げる美彩を簡単にあしらってから横を抜けようとするが、先に進ませまいと美彩が相手の正面へと身体を移動させて進路を阻む。そんな彼女の表情には今まで要望を押し付けていた時と同じように悪戯ながらも艶やかな笑顔が浮かんでいた。


「嘘だぁ!前に背中洗ってくれた時、美彩の事えっちな目で見てたでしょー。スタッフさんが、商売道具を傷付けるわけにはいかないよねぇ?」


「少しは、言動を一致させて欲しいものだな」


 楽しそうに言う美彩の肩に手を置いて半ば無理矢理横に移動させると彼は浴室の脱衣所に足を踏み入れようとする。しかしながら部屋に入る直前に突然ドアが半分ほど閉まり、彼は鈍い音をたてて額をぶつけた。


「ふふっ。だーめ。先に、入って待ってるから……覗いちゃ駄目だぞー」


 先に更衣室に入った美彩が壁とドアとの隙間から顔を出して言うと、ウインクを飛ばしてからドアを閉める。

 先程ドアにぶつかった衝撃だけでなくこれから起こる逃れられない展開に、彼の掌は自然と額へとあてがわれていた。