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桜井玲香 『甘々』

「わかちゅきー!」


 お気に入りの相手の名前を呼びながらぱたぱたと背後へと駆け寄ると、雑誌を眺めている相手を後ろから勢い良く抱き締める。それが普段から見られる光景の為か楽屋内のメンバーはそれに反応を示すこと無く、玲香から名前を呼ばれた相手だけが彼女の方を振り返った。


「あ、玲香。おはよ」


 独特の呼ばれ方をされていたことで自らへと身体を寄せているのが玲香であると察していた若月佑美は、簡単に返事をすると手元にある雑誌へと意識を戻す。簡単にあしらう佑美に何とか構って貰おうと玲香は相手の身体を揺らするが、彼女の注意は相変わらず雑誌へと向けられていた。

 暫く経っても何の反応も見せない事に納得がいかない玲香は拗ねたように軽く頬を膨らませる。しかしながらその後に名案を閃いたのか、玲香は背中から離れると佑美の前へと移動をした。


「わかちゅき、わっ!わっ!」


 正面に回った玲香が両掌を見せるお決まりのポーズを取ると、我慢出来なくなった佑美から笑いが溢れる。ようやく反応を示した事が余程嬉しかったのか玲香は再び相手の身体へと腕を回した。

 雑誌を閉じた佑美は困ったように笑いながらも満更ではない様子で相手の行為を受け入れる。


「もう、やーっと笑ったぁ」


「玲香引っ付きすぎだってば。そんなんだから皆からガチって言われるんだよ」


 玲香は抱き付いたまま彼女の頭へと自らの頬を重ねる。そのまま暫く動こうとしない玲香を茶化すように言った佑美はそっと彼女の身体を離すと収録の用意を始める。引き離された玲香は不満そうにしていたが、鏡の前に移動した佑美の隣に行くと撮影前のチェックを行っている彼女をぼんやりと眺める。見られている事が恥ずかしいのか佑美がはにかむと、玲香は今度は彼女の腕へと自らの頭を預けた。

 メンバー全員が用意を済ませた頃合いになると控え室のドアが開く。入ってきた人物に視線を集めた彼女達は、それぞれ頭を下げてから挨拶を行う。


「皆、もうすぐ本番だ。スタジオに向かってくれ」


 スタッフからの指示を受けたメンバーは返事をしてからスタジオに向かっていく。全員が控え室を出ていく様子を見届けてからようやく玲香は座っていた椅子を立った。

 自らも移動を開始するが彼女の足はスタジオに向かう控え室のドアの方面ではなくメンバーを呼びに来たスタッフの方へと向かった。


「ふふふっ。わっ!」


「何だ、もうすぐ本番だと伝えたはずだが」


 先程佑美に行ったものと同じポーズを取りながら、玲香は満面の笑みで相手へと声を発する。しかし彼は大きな反応も見せず控え室で一番最後となった彼女を急かした。

 素っ気ない反応を見せられた玲香は納得していないのか、受けた指示に反して相手の前から動こうとしない。その表情には僅かに悲しげな様子が浮かんでいた。


「なんかいつもに増してツンツン……あ。ひょっとして、わかちゅきといちゃいちゃしてたからヤキモチ妬いてるんだ。可愛いなぁ」


 顔色を全く変えない彼をまじまじと見ながら、玲香は違和感に首を捻る。その直後にたまたま頭に浮かんだ理由を彼の答えを聞くことなく相手の機嫌が悪い理由と定めると、一人納得したように頷き話を進める。

 自己解決による達成感によって調子を良くした玲香は彼の頬をつつこうとするが、触れる直前になって相手はその指先を避けた。


「無駄話している暇があるのか?そんな事だからメンバーに遅い、ポンコツだと言われるのだろう」


「いいの。こうやって元気充電しなきゃいけないんだから。ぎゅー!」


 頑なに移動をしようとしない玲香に対し彼は怒りによってスタジオに向かわせようと謀る。しかし全く気にする素振りも見せずに彼女は言い返すと自らの腕を広げた。完全に油断していた彼は玲香の狙い通り背中へと腕を回される。

 相手を捕らえた腕に力を加えながら、玲香は彼の胸の辺りに顔を埋めた。彼女の声色が猫撫で声だった事を思い返し、彼は玲香が完全に甘える体制に入ってしまった事態を察した。


「こんな場所では止めろと……」


「今日はたくさんツンツンしてるから、長く充電必要かも。ぎゅー」


 場所が場所である為に、彼は目撃者がいないか辺りを見渡して確かめながらも玲香を引き離そうとする。そんな彼の行為が彼女を焚き付けたのか玲香は絶対にはなすまいと回している腕になお力を込めた。


「玲香、何して……あっ」


 突然ドアの開く音がすると、遅い玲香を心配してか佑美が控え室へと戻ってくる。そんな彼女の視線の先にスタッフを離そうとしない玲香が映り、佑美は衝撃を受けて絶句した。

 相手が入ってきてから少し遅れて彼は現状を理解する。慌てて玲香を押し返そうとするが、見つかってもなお彼女は腕の力を緩めずに彼へと密着し続けた。


「えっと……ご、ごめんなさい。みんなには上手く言うので……ごゆっくり……」


「待て、佑美。」


 無理に笑いながら数回頭を下げ、佑美は後ずさるように控え室を立ち去る。説明をする必要があると判断した彼は佑美の後を追おうとするが、身動きが取れずそのまま彼女を見送る形となる。

 説明の機会を無くした相手を問いただそうと彼が視線を落とすと、埋めていた顔を上げて何かを言いたそうにしている玲香と目が合った。


「大丈夫。若月にはちゃんと説明してるし、理解してくれてるから」


 確実に意気消沈していることが見て取れたのか、玲香は相手を元気付けようと明るく言う。そのフォローの言葉を受けてもなお頭を悩ませている彼であったが、玲香の腕の力が緩んでいる事を感じとり自らの身体を遠ざけた。


「ほら、終わりだ。早くスタジオに行くんだ」


「えー?まだ足りないよー……」


 落胆のあまり溜め息を吐きつつ身嗜みを整える彼はもう1度彼女を促す。寂しそうに言う玲香は再び彼へと腕を回そうとするが、額に手を置かれた事によって接近が阻止される。

 ばたばたとしていた玲香であったが、時計を見るとやがて大人しくなる。その後鏡の前へと足早に移動すると自らの映る姿を確認した。


「さらりと言っていたが、重大問題だぞ。何度言わせる、場所は選べと……」


「ふふふ、若月からの質問攻めは覚悟しててね!」


 彼の説教を聞き流しながら相手へと近付くと、玲香は背伸びをして彼の頬に口付けをする。動きを止めた彼を残して玲香は控え室を出る。

 自らの口付け彼ので言葉が止まった事を思い返し、機嫌を良くした彼女の足取りは軽かった。