解散したのはそれから数時間後の事だった。
乃木坂メンバーとの会食終了後、健太は秋元が用意した住所に向かう。
ほぼ田舎育ちの健太には土地勘が全くわからずにあまり役に立たない携帯のGPSのみを頼りに都会のビル群を彷徨った挙句、ようやくそれらしき住所にたどり着いた時には時刻は21時を廻る頃だった。
見上げるほどに高い高層マンションに健太はたじろいでいた。
駆け出しのまだろくにダンスのレッスンすらもしていない右も左もわからない自分がこんな御大層なマンションに住んでもいいのだろうか?
なぜこれ程までに会って間もないこんな自分に投資するのか?
頭の中で数々の疑問が渦巻きの様に目まぐるしく回る。
そんな時、誰かに背中をトントンと叩かれた。
「大丈夫ですか?」
少し掠れたような声が聞こえて振り返る。
健太は再びフリーズした。
風に揺れる漆黒の髪、そしてそれを抑える雪のように白い肌。
吸い込まれそうな大きな瞳に薄めの唇。
どこかで見たことのある様な顔。
惚れ惚れするほど小綺麗な顔。
健太にまじまじと見つめられている女性は次第に顔を赤らめ始めた。
『失礼ですが、何処かでお会いしたことはありませんか?』
今までにないほど心臓が高鳴っている。
苦しくはない。むしろ高揚感がある。
先程までの目眩が嘘の様だ。
「い、いえ、多分ないと思います…」
『そうですか…あの体調を戻して頂いたお礼をさせていただけませんか?』
女性はキョトンとした表情を見せた。
え?あれだけで治ったの?とでも思っているのかもしれない。
「あ、いえいえ。お礼だなんてそんな!あ、私もう行きますね!?失礼します!」
声をかけるまでもなく女性の姿はすぐに闇の中に溶けていった。
肩を落とす様に目線を下げるとあの女性が落としたと思わしき白いハンカチが地面に落ちていた。
全体を見るが特に名前の刺繍は無いようだ。
同じマンションならばまた会うこともあるだろうと淡い期待を胸に健太はマンションの入り口に入っていった。
ーーーーーーー
マンションに入るとさらに緊張で身が引き締まる。
まるで高級ホテルの様なエントランス。
入り口の自動ドアにはリムジンで使用するようなスモークガラスが使用されていて大理石の床に真っ白なソファがオシャレに配置されていてエントランス中央には噴水がある。
真っ白なソファの一つに一際目立つ青い封筒が無造作に置かれていた。
手に取ると【矢口健太へ】と小洒落たサインで書かれた物が置いてあった。
宛名は書いていないが大体の目星は付く。
恐らくあの狸で間違いないだろう。
健太は封筒を開封した。
【やぁやぁ、気に入ってくれたかな?これから君はこのマンションの住人だ。まぁ他にも居住者はいるが全て関係者だから心配は無用だ。
あ、そうそう君の荷物はすでに部屋に運んである。
仕事についてはおって連絡する】
読み終えると同封されていた鍵を見る。
806号室と刻印されているようだ。
なぜこんなところに部屋の鍵を放置するのか。
差出人の理解し難い行動に頭を悩ませる。
むにっ。
不意に後ろからほっぺたを突かれた。
「ふふっ、柔らかい」
『@◯×#$€%×☆〜〜!!』
声にならない絶叫とともに体勢を崩し頬をつついた人物に倒れこんでしまった。
短めの明るい茶髪。
凛とした顔立ち。
気づけば橋本奈々未の顔が目の前にあった。
少し体勢を低くすれば唇が触れてしまうほどの近距離にお互い茹で蛸のように赤面する。
「〜〜っ…!」
『ごごご、ごめんなさ、むぐぅ!?』
橋本の手が健太の口を塞ぐ。
「こ、ここ、マンションだから。五月蝿いと出てかなきゃいけないんだからね?」
二三度激しく頷くと橋本から退き手を差し伸べた。
橋本は健太の手を素直に手を取ろうとしたがその瞬間誰かがエントランスへと入ってきた。
何事もなかったように橋本は自分の力で立ち上がる。
「あ、ななみん。それに健太くんまでどうしたの?」
仕事終わりであろう白石麻衣がそこに立っていた。
『あ、えーっと実はここに越す事になりまして…』
「へぇー!そうなんだぁ。あ、じゃあ私見に行っちゃおうかなぁ?健太くんの部屋」
その言葉を耳にした瞬間、橋本は鋭い視線を白石に向けた。
「よし、じゃあ私もいく。健太くんとまいやん二人きりにしたら何か間違いが起きるかもだし」
『え?あの〜…まだ荷物整理してないのですけど』
「いいからいいから!」
二人に背中を押されて健太はエレベーターへと押し込まれた。
エレベーターの中は割と広かったにも関わらず二人はすぐ隣りにいる。
それは少しでも動けば肩が触れてしまいそうなほど。
逃げるとでも思っているのだろうか。
逃げ場などないというのに。
重苦しい空気の中言葉を発そうとした瞬間、目的地の8階に到着した。
「さ、行こう?」
諦めた健太は急かされるままに806号室まで足を進めた。
エレベーターからはそこまで遠くないようでエレベーターから部屋まで1分もかからなかった。
封筒から鍵を取り出して柵を開け、玄関を開けると健太はまたまたフリーズした。
秋元康という人物がますますわからなくなってきている。
セレブのような白と黒で纏められた内装に外の景色を一望できる窓。
部屋の隅に置いてあるダンボールを除けばまるで映画の中のワンシーンに出てきそうな部屋をなぜこんな何の取り柄もなさそうな自分に与えるのか。
確かにすごく嬉しいのだが腑に落ちない。
『あ、えっと好きなところにお座りください』
既に少量設置されているソファがありそこに2人に座るよう促した。
「ありがと」「ありがとう!」
「ねぇ、健太くん?少しお話したいからそこに座って?」
『は、えっと…はい』
健太は少し躊躇するも2人の向かいに座り込む。
躊躇する理由としては橋本は赤いドレス、白石は下がショートパンツというかなり露出が高い出で立ちだからである。
彼女らの太ももに目がいかないように彼女らの顔を真剣な眼差しで見つめた。
「健太くん。何で玲奈さんを口説こうとしたのかな?」
「へぇ。健太くん、玲奈さん好きなんだ?」
玲奈さん?一体全体誰のことだろう。と皆目見当もつかないような表情を浮かべる。
『あの〜玲奈さんて誰ですか?』
その言葉を発した瞬間信じられない!と言いたげな表情を浮かべる2人。
「え?!まさか、知らないの?!
『はい。全く』
今度は呆れた表情を浮かべる2人。
そんなに有名な人物なんだろうか。
それにしても口説こうとしたという言葉が気になる。
もしかして…あの入り口で出会った美しい女性のことなんだろうか。
「まぁ、玲奈さんを知らないのは置いておくとして心当たりあるんでしょ?」
冷や汗を流す健太。
なぜだか彼女らと付き合ってるわけでもないのに浮気を咎められている気分になっている自分がいる。
「見ちゃったんだよね〜私。鼻の下伸ばしちゃってさ」
休まることのない白石の追求にたじろぐ健太。
初顔合わせの時のあの優しい笑顔は見れそうにもない。
橋本はニヤニヤしながらその状況を楽しんでいる。
そんなに人の不幸が面白いのだろうか。
「せっかくアイドルになったのにね?ああ、口が滑って言っちゃいそう」
アイドルにとって恋愛沙汰はご法度。
そのくらいは世間知らずの健太にもわかっている。
『何をすれば…黙ってて貰えますか?』
「ふふ…どーしよっかなぁ?」
意地悪な笑みを浮かべて橋本もつられてニヤリと悪そうな笑みを浮かべる。
「じゃあ、LINEと電話番号とメアドを教えてくれたら黙っててあげる」
そんなことなら脅さなくても別に教えたのに。
健太は警戒心を解くと二人にLINE、電話番号、メールアドレスの全てを教えた。
これが新たなる女難の種になるとも知らずに。