
「本当か?」
妻である渡辺美優紀から受けた告白に、奥野正義は目を見開いた。
食べかけていた箸から、トマトが落ちる。
「本当やで。なんか生理が来ないなあって思ってたら、陽性反応やった」
悪戯っ子のような笑みを浮かべる美優紀に、正義は思わず椅子から立ち上がった。
「やったな! ついに俺たちの子が出来たんだ……」
目から涙が溢れ出て来た。
それはまるで、蛇口を固く締めていた水道が破裂をしたかのような涙だった。
「まだ油断は出来へんって。ほら、涙を拭きや。大の男がみっともないで」
テーブルの上にバタバタと落ちる涙。嗚咽しながら正義は何度も頷くが、一向に涙が止まる気配はなかった。
そんな夫である正義を美優紀は優しい目で見守ると、ティッシュ箱を差し出した。
ティッシュで目元と鼻元を覆う正義。それを見ていると、いつしか美優紀の目からも、大粒の涙が流れ落ちてきた。
「三か月やって」
あくる日、産婦人科に行った美優紀は、医師から妊娠三か月を告げられた。
おおよそ見当はついていたが、それでも美優紀は飛び跳ねて喜んだ。産婦人科を後にすると、彼女はすぐに正義へ報告のメールを送った。
仕事中にも関わらず、返事はすぐに来た。
普段のメールではそっけない返信の多い正義だが、この日ばかりは彼の喜びを目の前で見ているかのような嬉々とした返信内容だった。
「男の子かな。女の子かな。女の子なら、俺よりも美優紀に似てもらいたいなあ」
食事も上の空の正義。仕事もさっさと切り上げて帰って来ていた。
「まだ分からんって。もしかしたら両方かもしれんし」
「双子かあ。育てるのが大変そうだ」
いつもの現実主義者の正義ではない。そこにいたのは、妄想の世界へと入り浸った男であった。
「双子とは限らへんで。もしかしたら、六つ子かもしれへんで」
初めて見る正義の姿に、美優紀の気分もいつの間にか高揚していた。
「そんな、おそ松くんじゃあるまいし。でも、子供が多いのも悪くないなあ」
果たしてどんな生活を夢に見ているのだろうか。
妄想を膨らませる正義を見ながら、美優紀は顔がにやけるのを我慢出来なかった。
それと同時に、悪戯心がムクムクと湧いて出て来る。
「ただいま」
美優紀の妊娠発覚以来、正義はよほどのトラブルがない限り早く帰って来るようになっていた。
いつも帰宅する際には、メールを寄こしてくる。だから、美優紀はそれを逆手に取ることにした。
「フフフ。お帰り」
インターフォンを鳴らし、玄関で出迎えた妻を見た正義は驚愕した。
「なっ、お前なんて格好をしているんだ」
美優紀の恰好は、下着姿にエプロンを身に着けただけだった。
彼女の下着姿は見慣れているが、それでもエプロンを身に着けただけでこんなにも扇情的に見えるなんて。
彼女の妊娠が分かってから、正義は妻を抱いていなかった。子供が流れてしまうのを恐れていたからだ。
「フフフー。似合ってる?」
そんな正義の気遣いを弄ぶように、美優紀はクルクルと回りながら笑顔を振りまいていた。
いつもと違う格好。扇情的な衣装に加え、彼女を抱いていない性欲が一気に湧いて出て来るのを正義は感じた。
だが、彼女の腹の中には、子供がいるのだ。
まだ柔肌のように繊細で、脆弱な命。
血液が集まり始めていた陰茎から、血が引いていく。
「なあ、久しぶりにしようや」
時間はまだ夜も迎えたばかりだ。
以前よりもはるかに夫と過ごす時間が増えている。
正義はそんな妻からの誘惑に、つばを飲み込んだ。
腹の子は心配だ。
けれど、久しぶりに妻を抱きたくなった。
どうしよう。
正義は、人生の岐路に立たされた気がした。