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島崎遥香 アゲイン

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「なんかいいことでもあったのか?」


 柔らかな午後の日差しが降り注ぐリビング。

 昼寝から覚めたばかりの遥香は、先ほどまで見ていた夢を思い出していた。


「いい夢を見たんだ」

 

「へー。どんな夢?」


 遥香の夫である男は、興味深そうに毛布を身体からどかした。

 

「秘密」

 

「なんだよ。気になるじゃないか」


 寝癖の付いたままの男は、身体をグッと伸ばした。骨がポキポキと音を立てる。

 遥香も、それに倣うように身体を伸ばした。

 グッと伸ばしながら、見ていた夢を忘れたくないなと思った。




 子供の頃の夢だった。

 

 学校を終え、遥香は男の子と一緒に下校をしていた。

 男の子はハンサムとはいえなかったが、とても優しそうな顔をしていた。


「ねえ、マサ君って好きな人はいるの?」


 遥香の突然の質問に男の子は虚を突かれたように目を丸くし、立ち止まった。


「いきなりなんだよ」


「うーん。ちょっと気になって」


 小学生も高学年である。遥香は同級生とそんな話をしたことはあるが、男の子にはなかった。

 自分の好きな人を言うという行為が、彼には信じられなかった。


「ね、教えてよ」


「えー。やだよ」


「なんで。教えてって」


 諦めきれずに、遥香は男の子の洋服を掴んで、懇願した。

 普段の遥香は諦めが早い方だったが、この日ばかりはオモチャを買ってもらうかのように諦めが悪かった。


「ぱるるが先に言ってくれたら、言うよ」


 どうせ「秘密」と言って、彼女は自分の質問に答えないだろう。男の子はそう思いながら、彼女を試した。


「本当だね?」


「え? 本当に言ってくれるの?」


 だが、彼の予想に反して、遥香は言うつもりのようだった。

 予想を外した彼は、目を見開いて、遥香のことを見た。

 

 緊張感からか、遥香の顔は真っ赤になっていた。色白の彼女が見せるその顔に、男の子はドキリとした。


「じゃあ、言うからね。ちゃんと私が言ったら、マサ君も言うんだよ」


 手に汗が滲んできた。

 実は、彼が好きなのは遥香だった。


 その子が、今から好きな子の名前を言うのだ。

 緊張しないわけがなかった。

 トイレに行きたいわけではなかったのに、急に膀胱に尿が溜まるようだった。叫んで逃げ出したくなった。

 

「あのね、私が好きなのは……マサ君なんだ」


「え?」


 ついに言った。

 遥香はそれだけで満足だった。

 ずっと片思いをしていたが、今日ようやく言えたのだ。


「あー。言っちゃった。でもスッキリした。はい、次はマサ君の番だよ」


 真っ赤だった顔が、一変して清々しい顔を見せる遥香。

 それに対し、男の子の顔は真っ赤になっていた。


「真っ赤だけど、大丈夫?」


「そういうぱるるこそ」


「だって、恥ずかしかったもん。ほら、マサ君も」


 男の子は困ったように、視線を泳がせ、俯いてしまった。

 地面の一点を見つめている。

 コンクリートに、隆起している部分があった。

 

「……僕もぱるるが好き」


 絞り出したような声が聞こえた。

 男の子は、遥香の顔を見ずに言った。


「本当? そしたら私たち両想いだね」


 手を合わせて喜ぶ遥香。男の子もようやく顔を上げた。


「じゃあ、私たち晴れてカップルになったんだ」


 カップルという言葉は知っている。けれど、そこから先が男の子には分からなかった。


「カップルって、何をすればいいの?」


 喜ぶ遥香は、男の子の質問に困ってしまった。

 告白ばかりが先行して、その先のことなんて考えていなかった。


「うーん。何をするんだろう?」


 腕を組んで考える遥香。

 そこへ男の子の細い腕が伸びてきた。


「とりあえず、手を繋いで帰ろっか」


「うん!」


 優柔不断で、頼りない子だと思っていた。

 けれど、それは違ったようだ。

 遥香は男の子の手を握ると、幸せな気持ちが込み上げてくるのが分かった。今なら、どんなことでも許せそうだ。


「そうだ。浮気は絶対にダメだからね」


「しないよお」


「約束だよ」


 そう言って、遥香はにいっと笑った。




 小学生で、浮気の心配をするとは。

 夢から覚めた遥香は、苦笑した。


 まさか昔好きだった彼のことを夢に見るとは。

 そして、告白をするなんて――。

 

 あの頃の自分にそんな勇気があったのなら、未来は変わっていたのだろうか。


「どうしても教えてくれない?」


「うん。秘密」


 男はダメだと言わんばかりに、大の字になった。


「遥香ってほんと、秘密主義だよな。子供も作りたくない理由を話してくれないし」


 結婚してから一年。二人はまだ子供がいなかった。


「まだまだ母親になる気はありませんもの」


「そう言って。知ってるんだぞ。子供の名前を考えているって」


 男はガバリと身体を起こすと、遥香に向かって指を突き出した。

 彼の言う通りであった。遥香は子供の名前をノートに書き並べている。


「名前ぐらい考えるわよ。絶対に子供の名前は私が決めた名前にするんだから」


「俺の意見は?」


「ないわよ」


「そりゃないぜ」


「だって痛い思いをして、産むのは私よ? それを忘れてなくて?」


 そう言われてしまえば、男は何も言い返せなかった。


「せめてキラキラネームは止めてくれよ」


 苦虫を噛み潰したような顔で、男は呟いた。




 どんな名前がいいのだろう。

 ノートを(めく)りながら、遥香は思案する。

 候補はたくさん書き込んでいた。男が止めてくれと呟いたキラキラネームもある。


 そんな中で、遥香は決めていたことがある。

 『マサ』と付く字は止めよう。

 せっかく産まれてくる子供である。縁起の悪い名前は避けたかった。


 産まれてくる子の、恋が成就しますように――。

 遥香は、自分が成し遂げられなかった恋を子供に託している。