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「裕奈。今日も可愛いね」

 

 男が笑顔を作りながら近づいて来る。

 けど、その笑顔は引きつっているように見える。この男の笑顔は常にそうなのだ。


「今日はいい天気だった。夕方には真っ赤な夕空が見えたよ。裕奈にも見せてやりたかったな」

 

 その光景を、私も天窓から見た。

 真っ赤に染まる空。それはこの世の終わりかと思わせるような空だったが、すぐに暗闇に飲まれてしまった。

 私もあの空のように同化出来たら……。

 

「今度外に出てみようか。首輪でも付けて」

 

 まるで犬の散歩のようだ。

 私は鼻を鳴らした。

 

「人が話しているのに、鼻を鳴らすとは。いい度胸してるじゃないか」

 

 男の顔が一変した。

 引きつった笑顔が消え、眉間に神経質そうな皺が寄る。

 

 きっと、これまでの私だったら泣いて言い訳を言っていただろう。

 それが男の気分を逆に良くさせているとは知らずに……。

 

「なあ、お前はいつからそんな偉くなった? 答えろよ」

 

 鉄格子の扉が開かれる。

 逃げ出そうか?

 男の隙間からはきっと逃げ出すことが出来るだろう。しかし、その先にある扉には鍵がかかっている。

 鍵は男が持っていた。

 

「…………」

 

 私は口を真一文字に結ぶ。

 この男に口を開いてしまえば、それこそ男の言いなりなのだ。

 

「そうか。答えないのか」

 

 男が言いながら、バッグから物を取り出した。

 注射器を大きくしたようなデザイン。

 

 浣腸だ。

 もう何度もされているが、未だに嫌なものに変わりはなかった。

 緊張感を感じ取った腹部が、痛みだす。

 

「ケツを出せ」

 

 浣腸の準備を進める男に背を向けると、私は男に向かって尻を突き出す。

 抵抗したところで無駄なのだ。こんな狭い檻に入れられている。逃げ場所なんてない。

 逆に男の気分を高揚させてしまうのであれば、素直に従っていた方がはるかにいい結果となる。私は数日の間でそれを痛いほどに学んでいた。

 

「従順になったな。お前ももしかしてこういうのが好きなんじゃないのか」

 

 顔がカッと熱くなる。

 自分のお尻など、決して人に見られたくない大事なところを見られるだけでなく、そこへ指や浣腸器が触れるのだ。

 

 これからされることは分かっている。

 お腹が緊張感のピークを迎えたように(うごめ)き出した。

 

『ぷう』

 

 すると、気の抜けたような軽い音がした。

 私はハッとした。

 

「お前このタイミングで屁かよ」

 

 男が声を上げて笑った。こんなにも声を上げて笑う男を見るのは、私が初めての浣腸に泣きながら排泄をしていた時以来だ。

 

 顔面がカッーと熱くなるのを感じる。

 やってしまった。

 私は無意識のうちにお腹に力を入れ過ぎていたようだ。

 

「くっせえな。換気が必要だけど、ここじゃ無理だわ」

 

 においなんてしていないはずだった。

 少なくとも、私の鼻は臭さを感じなかった。

 

 男がわざと言っているのは分かっていた。

 けれども、恥ずかしさは消えず、むしろ更に大きくなるようだった。

 

「お前カメムシみたいだな。身の危険を感じたら異臭を放つところなんて、まんまカメムシだ」

 

 カメムシが頭に浮かぶ。

 私も大嫌いな虫。それと同じようだと言われ、思わず涙が出て来る。

 

「おっ、泣いた、泣いた」

 

 人形の私に涙はないと思っていた。

 だけど、涙はどんどん溢れ落ちていく。

 それはまるで、ずっと(ふた)をしていたのが取れてしまったかのようだ。

 

 男の顔がヘラヘラと笑っているのは、見ていなくとも分かった。

 声の調子が戻っている。

 

 私の心が折れる音を聞いた。

 枝葉を踏んだような音だった。

 結局は、こんなものか。

 

 枝葉のように脆い私の心。

 人形になんてなれなかった。

 

 

 

「私は人形、私は人形、私は……」

 

 それでも、おまじないはこの言葉しか知らない。

 私は(すが)るようにその言葉を呟き続けた。