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北川綾巴 優しい嘘

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「うん。まだまだ凡ミスはあるけど、ずいぶんと良くなったわね。ちょっと休憩をしましょうか」

 

 答案用紙に赤ペンを入れ終えると、北川綾巴は休憩を提案した。

 

「そうしよう、そうしよう。お菓子持って来るね。ママー」

 

 勉強机に向かっていた少女は、綾巴の言葉で椅子から勢いよく立ち上がると、部屋からさっさと出て行ってしまった。

 まるで台風だな。

 風で飛んだプリントを拾うと、綾巴はグッと背伸びした。

 

 

 

 大学に進学した綾巴は、どんなアルバイトをしようか悩んだ。

 接客業は向いてなさそうだし、力仕事も無理そうだった。

 何がいいかと悩んでいると、家庭教師なら出来るかもしれないと思った。

 

 履歴書を送って、面接を受けた。

 学歴も問題ないようで、すぐに採用の連絡が来た。

 

 だが、いざ採用になると綾巴は不安になった。

 家庭教師とは人にものを教える立場だ。果たして自分が人にものを教えられるのだろうか。

 

 不安に苛まれる中、初めての教え子を持った。

 小学五年生の女の子だった。

 藤堂栞。性格的におっとりとしており、成績はあまり良くない子だった。

 

 落ち着きのない子よりはいいだろうと思っていた綾巴だったが、いざ栞と接すると、なるほど。不器用な子だ。

 おっとりとしているというよりも、のんびり型で人の話をあまり聞いていない時がある。

 聞けば、集団行動は苦手だとも言っていて、綾巴は納得した。

 

 マイペースと言ってしまえば通用するが、言葉を変えれば臨機応変なことは苦手で、行動そのものが鈍足なのである。

 スピードが求められる昨今。栞のようなタイプは、置いて行かれる典型的なタイプであった。

 彼女の母親からも、娘を根気強く教えてくれと頼まれている。

 

 

 

 自分と似ているかもしれない。

 綾巴はビスケットの欠片を口の端に付けている栞を見てそう思った。

 

「栞ちゃん、付いてるわよ」

 

「ん。先生も食べなよ。美味しいよ」

 

 ティッシュで拭いてあげると、お菓子を入れた器を差し出される。

 

「太っちゃうわね」

 

「えー。先生痩せているじゃん。栞の方が太っているよ」

 

 言うように、栞はわりとふっくらとした子だった。

 

「まだまだ小学生でしょ。大きくなればシュッとするわよ。先生ぐらいになると、気を付けなきゃいけないの」

 

「ふーん。ママも同じようなこと言ってた。大人って大変だね」

 

 ビスケットを美味しそうに頬張る栞を見て、綾巴はふふっと笑った。

 

「でも大人になればいいことだってたくさんあるよ」

 

「例えば?」

 

「好きな人と付き合ったり、結婚出来たり」

 

「先生は好きな人いるの?」

 

「……いるよ。ううん。正確に言えば、“いた”かな。でも、“いる”の方が正しいかな。ごめん、分かんないや」

 

 もう会っていない人。

 もしかしたら結婚したかもしれない。

 

「先生が分かんなきゃ、栞も分かんないよ」

 

「そうよね。栞ちゃんは?」

 

「いるよ」

 

「へー。どんな子? かっこいい?」

 

「うん。優しくてかっこいい」

 

「いいなあ。同じクラスの子?」

 

「うん」

 

 栞の話を聞きながら、綾巴は嫉妬を覚えている自分に気が付いた。

 こんな子供に嫉妬を感じるなんて。

 妬みの感情は子供相手でも生まれることを綾巴は知った。

 

「でも、他にその子のことが好きな子がたくさんいるもんなあ」

 

「あっ、やっぱりそうなんだ」

 

「うん。ねえ、栞じゃやっぱり無理かな」

 

 不安そうな顔で見つめられる綾巴。

 どんくさい栞では、その中にあって出し抜くことは厳しいだろう。子供でも、女社会というものが確かに存在する。

 

 言いあぐねる綾巴。

 どう言えば正解なのだろう。

 心を鬼にして、無理だとか厳しいとハッキリ言えばいいか。

 はたまた、諦めなければ必ずチャンスは訪れるとでも言えばいいのか。しかしそれは嘘を付くことになる。

 

 優しい嘘――実はそれはあくまで最初のうちだけで、やがて相手を深く傷つけてしまうことになりかねない。

 そう。自分のように。

 

 あの嘘をまだ心の底で信じている自分がいる。

 彼としては、その場しのぎか、まさか結果的に嘘を付く羽目になるとは思ってもいないのかもしれない。

 

 期待と不安を孕んだ目でこちらを見るその目が、綾巴にとっては恐怖でもあり、疎ましく感じる。

 綾巴はようやく重い口を開けた。

 

「私は――」