「どうかされましたか?」
「ん? ああ、ちょっと煙草を止めててね。こう酒が入ると吸いたくなるのを我慢しているんだ」
「左様でしたか。もしかして具合が悪いのかと思っていましたもので」
「ああ、悪いよ。煙草を吸えないだけでこんなにも落ち着かないんだからな」
奥野正義はそう言ってグラスを空けると、ポケットからガムを取り出した。
しきりに身体を揺らしている。
どうやら相当吸いたいのを我慢しているようだ。
「禁煙される方はみんなそう言いますね。ちなみに、禁煙されて何日ほどで」
「一週間だ。禁煙なんてしたことのない俺にしてみりゃ最長記録を更新しているな」
「自分は煙草を吸わないのでどれほどか分かりませんが、大変なんでしょうね。でもなんでまた禁煙を?」
おそらく健康のことか、経済的な理由だろうと平野正樹は読んだ。
「彼女のためだ」
だが、その予想は外れた。
「へえ。それはまた。彼女のために止めるなんてすごいですね」
「俺が禁煙を成功させたら、“させてくれる”らしい」
「何を?」
店内には他に人はいなかった。が、正義は一応辺りを見渡し、小声で言った。
「セックスさ。ケツでの、な」
恋人である古畑奈和に言われ、禁煙をしようとは思っているものの、一日とそれはもたなかった。
正直、禁煙をする理由がないのだ。
煙草を吸っていても経済的にも余裕はあるし、健康体だ。そのうち健康を害すると言われても、誰だってその可能性はある。
そう。喫煙家だろうが、嫌煙家だろうが病気のリスクは誰にもある。
明日交通事故で死ぬかもしれない。
来年末期のがんに侵されているのかもしれない。
そう考えると、どうしても禁煙する必要性が分からなくなってくるのだ。
奈和に隠れて吸っていたことが彼女に発覚された時、二人はケンカになった。
ケンカといっても、奈和は言いたいことだけを言うと、さっさと泣いてしまうだけだった。
自分の主張をするだけして、あとは泣くだけ。女なんてものは楽な生き方だと正義は思った。
「ねえ、どうしたら止めてくれるの」
「さあ? 自分でも分からねえ」
イライラしている。
煙草を吸えないこともそうだし、なぜ自分が我慢をしなくちゃいけないのかも。
「大体なんで俺だけ我慢しなくちゃいけないんだ? フェアじゃない。相手に一方的に嗜好品を止めさせて、自分だけはのうのうと貪り続ける。こんなアンフェアなことって、受け入れられるわけがない」
「自分でも止めるって言ったくせに。正義がそんな弱い人間だと思わなかった。もう帰る」
「待てよ」
帰ろうとする奈和を引き留めると、正義は彼女を押し倒した。
「離して!」
教え子を押さえつけて、馬乗りの体勢になっている。
それはまるでこれからレイプをしようとしているかのようだ。
正義のペニスは早くも血液が集まり始めた。
このまま犯してしまおう。
そう思った時だ。
名案が思いついたのは。
「で、俺が禁煙に成功したらケツでセックスさせる約束を取り付けたというわけだ」
自信ありげに言う正義に、正樹はどことなく親近感を覚えた。
自分も恋人である入山杏奈に肛門での性交をしたことがあるからだろう。
「それは。ですが、禁煙に成功というのは、具体的にいつまで吸わなかったら成功なんでしょうね」
正樹がポツリと言った言葉に、正義は「あっ」と呟いた。
そうだ。具体的な日付までは決めていなかった。
「そうだよ。忘れてた」
「一週間なのか、一か月なのか、三か月なのか。そもそも禁煙の成功はいつまで吸わなかったら成功なんでしょうね」
「さすがに一か月吸わなかったら成功だろう」
「それでも結局止められずに、また吸ってらっしゃる方を何度も見たことがありますけどね」
正義は腕を組んで背もたれにもたれかかると、大きく溜め息をついた。
「せっかくケツでのセックスを楽しみにしていたのに。先は長そうだぜ」
「ええ。成功の代償というのはそう簡単なものじゃありませんよ」