文字サイズ:

7dc660931597699572a322f0.jpg




「やだ。綾巴、帰りたくない」

 

「そんなこと言わないの。親御さんも心配するよ」

 

「綾巴はそんな子供じゃない。もう高校生だよ?」

 

「高校生じゃまだ子供だよ。おまけに、正確に言えば、まだ高校生じゃないでしょ」

 

 頬を大袈裟に膨らませる北川綾巴に、平野正樹は溜め息をついた。

 子供じゃないと言い張っているが、どこからどう見ても、聞き分けのない子供じゃないか。

 

「とにかく、もういつまでもここに居るわけにはいかないから、出るよ」

 

 路肩に停車中の車を動かすと、隣から正樹の肩にパンチが飛んできた。

 何度も殴られながらも、正樹はそれを無視しながらハンドルを動かす。

 

 

 

 綾巴の高校受験が合格したと聞いたのは、正樹が休日に出掛けていた先で北川親子に会った時だった。

 彼女の母親は、その節にお世話になったと深々と頭を下げ、綾巴の近況を話してくれた。そういえば、もう受験生だったのかと、正樹は驚きながらそれを聞いた。

 子供の成長というのをつくづくと早く感じた。

 

 合格祝いをしてあげたいなと、正樹が何気なく言うのを綾巴は聞き逃さなかった。

 杏奈からは、彼と別れていたと聞いていたから、チャンスかもしれないと思った。

 

「私、正樹さんとドライブに行きたい」

 

 あの時、彼女の母親は笑っていた。人見知りの激しい子である。冗談だと思ったようだ。

 

 けれど、それが冗談でないと知ったのは、綾巴が行きたいと何度も駄々をこね始めた時だった――。

 

 

 

 断れなかった。

 そのこまで自分を求めて来てくれたのは、正樹には素直に嬉しく感じたし、困惑する母親にも申し訳ないという気持ちが湧いて出て来たからだ。

 

「自分でよければ」

 

 あの時は、さほど重大なこととは考えず、正樹は爽やかに言い放った。

 それがまさかこんなにも面倒なことになろうとは。

 

 

 

 綾巴の母親が、出させてくれと強引に出したお金で正樹はレンタカーを借りた。車を貸すとも言われたが、何千万もする車にもしものことがあったらと考えるだけで、運転なんてとても出来るものではなかった。

 

 春休みを迎えている綾巴は、いつでもいいとのことだったので、正樹は店が定休日の日に指定をさせてもらった。

 夜勤明けだから、午後三時に北川邸に向かって、綾巴と合流するプランを立てた。

 母親は心配をしたが、あまり夜が遅くなってもいけないと正樹が言うと、申し訳ないと頭を下げた。

 

 不安そうな母親とは対照的に、綾巴は終始、機嫌が良さそうだった。

 そんな綾巴を見るのは、久しぶりだと、あとで母親がこっそりと正樹に耳打ちをしていた。

 

 

 

 温泉へ行き、街中を車で走らせ、母親へお土産を買った。綾巴の機嫌は良く、ドライブは順調に進んでいた。

 だが、問題が起きたのは、正樹が帰ろうかと言い出した時だった。

 

「えー。もう帰るの? まだ九時前だよ」

 

 車に搭載されているデジタル時計を見た綾巴は、声を尖らせた。

 

「綾巴ちゃんの家まで送ると、十時近くになるよ。ちょうどいいというよりも、遅いぐらいだ」

 

 仕事柄、そんな時間はまだ早い方だと思えてならないが、世間では遅い時間に入るだろう。

 まして相手はまだ中学生なのだ。仮に高校生だとしても、大差ない。

 

「やだ。綾巴、帰りたくない」

 

 すんなりと受け入れると思っていた正樹は、車を路肩に停めた。

 

「そんなことを言わないの。遅い時間になっちゃったのは悪いけどさ。でも、それで約束したはずだよ?」

 

 そう言われてしまうと、綾巴は何も言い返せなかった。

 悔しさだけが残り、それをぶつけるように正樹の肩を無言で何度も叩いた。

 

「さ、親御さんも心配している。帰ろう」

 

「……バカ」

 

 唯一言えたのは、その一言だけだった。

 

「はいはい。バカで結構」

 

 だが、彼は怒ることなく、かといって真剣に受け止めるでもなかった。

 

 早く大人になりたい――。

 流れるネオンを見ながら、綾巴はそう思えてならなかった。

 

 

 

「はい。到着。忘れ物がないようにね」

 

 北川邸に到着し、ハザードを点けるが、綾巴はなかなかシートベルトを外そうとしなかった。

 またか。度重なる説得に、正樹は辟易(へきえき)としていた。

 

「約束して」

 

「何を?」

 

「またすぐにドライブへ連れて行って。しばらく彼女は作らないで。綾巴のことを子供扱いしないで。綾巴が二十歳になったら、一緒にお酒を飲んで」

 

「ずいぶんと多いけど、しばらく彼女は作らないで、っていうのは、具体的にはいつまで?」

 

 他のことは出来そうだったが、引っ掛かりを見せたのは彼女のことであった。

 特定の相手がいるわけではないが……。

 

「うーん。綾巴に彼氏が出来るまで?」

 

「なんで疑問形なの。じゃあ、早く作ろうね」

 

「無理。綾巴に出来る気がしない」

 

 舌をペロッと出した綾巴は、シートベルトを外し、荷物を抱えるようにしてドアを開けた。

 夜風が入り込んでくる。

 

「約束だよ。もし約束を破ったら、パパに言いつけて、正樹さんのお店を潰しちゃうんだから」

 

 冗談に聞こえなかった。綾巴なら本当にやりそうだ。

 正樹が乾いた笑い声を上げると、綾巴はウインクをして、北川邸へと消えて行った。

 

 不覚にもドキリとした。

 実は、運転中にも、以前に増して大人びた容姿になっていた綾巴に胸がドキドキとしていたのだ。

 

 綾巴との年齢差を頭の中で計算し、正樹は苦笑いした。

 何を考えているのか。

 綾巴がもっと年齢を重ねて、様々な人と出会えば、自分以上の人間が星の数ほどいるのが、きっと分かる日が来るだろう。彼女はまだ狭いテリトリーの中にいる。

 

 けれど、それを思うと、正樹の胸にチクリと棘が刺さった。

 小さな痛みだった。

 

 正樹はこの棘を抜くことなく、車を発進させた。

 

 

 

 綾巴のにおいがまだ残る車は、夜の街へと消えて行った。