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松井玲奈 いつかあの空に

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「どうした? 何かあったのか?」

 

「あら。起きたの。おはよう」

 

 今何時だと言いながら、柴原がサイドテーブルの上の時計を見ているのを松井玲奈――柴原玲奈は確認すると、再び窓の向こうを見た。




 我ながら最低な人間だと思った。

 あれだけ深く愛した男――不倫の果ての恋を玲奈は一刀両断するかのように、強引に断ち切らせた。


 彼には家庭があった。そこに付け込んだ女狐。

 彼を(たぶら)かし、彼の人生を狂わせようとした。

 

 けれど、ある日考えた。

 私はこのままでいいの?

 

 満たされぬ心。

 彼のことは愛していた。深く、深く。

 谷底よりも愛していたはずなのに、なぜこんなにも心に穴が開いたような虚無感を覚えるの?

 

 もう限界だった。

 彼の優しさに甘えることも。彼の深い愛に包まれることも。

 (ごう)の強い女狐は、自分から身を引いた。

 

 

 

 逃げるようにして実家へと帰った。

 久しぶりに帰って来た娘。父は何も言わなかった。


 玲奈が実家へ戻ってから、一か月が経っただろうか。

 街で偶然柴原と再会した。

 玲奈は、きっと転勤になったのだろうと思っていた。

 けれど、それは違った。

 

 彼は言った。

 

「松井さんのことが好きで、追いかけて来ました」

 

 彼と付き合っていたのなら、彼と知り合っていなかったのなら、きっと玲奈は柴原を気持ち悪く思ったはずだ。

 けれど、嫌悪感は不思議となかった。

 

 ホテルで柴原に抱かれる。

 あの人を思い出して、涙した――。




 愛に飢えていたのかもしれない。

 柴原と結婚をして、玲奈はぼんやりと分かり始めていた。

 誰かのモノになりたかった。

 あの人の前では、自分はあの人のモノではなかったから。

 

「しかし今日もいい天気だな」

 

 裸のままの柴原が隣に並ぶ。

 

「そうね」

 

「どうした? 泣いていたのか?」

 

 下着姿の玲奈の目は赤かった。

 

「ちょっと感傷的になっちゃってね」

 

 ふーん、と柴原は関心なさげに応えると、玲奈の腰に手を回した。

 まだまだ細い玲奈のくびれ。柴原の腕はそれを軽々と包み込んだ。

 

 子供が出来た気がする。

 昨晩の行為で、玲奈はそんな気がしてならなかった。

 

 子供が出来たら、もう一度あの人にハガキを送ってみよう。

 

「今日も暑そうだな」

 

 窓際は早くも熱を帯び始めていた。

 そう。夏は真っ盛りだった。

 あの人と出会った夏――。

 

 玲奈は空を見上げた。

 碧空(へきくう)の空。

 いつか見たあの空にとてもよく似ている空だった。