「今日も暇だなあ」
グラスを磨いた。床やテーブルの掃除もした。
けれど結局客はやって来ないから、またグラスを磨いた。
もう他にすることがなかった。
憧れていた職業に就いたのはいい。
けれど、どうやら店の経営状態まで“あの人”に似てしまったようだ。
もう連絡を取っていない彼。自分からすり寄って行ったいくせに、利用価値がないといわんばかりにさっさと彼の前から消えた。
彼の店はどうだろう?
昔のままかな? それとも大賑わい?
もしかしたら、店を畳んで違う仕事に就いているのかもしれない。
久しぶりに彼のことを思い出していると、店の扉がちょっとだけ開いた。
「あの、やってます?」
扉の先からひょこんと顔を覗かせる青年。
男と呼ぶにはまだ幼すぎ、男の子と呼ぶのにはちょっと大きすぎる彼。
おそらく自分よりも年下だろう。
「絶賛営業中よ。入って、入って」
どちらにせよ、待ちわびた客だ。
加藤玲奈は手招きしながら彼を招き入れた。
「実は、大好きな彼女にプロポーズをしようと思ってるんです」
甘いカクテルの入ったグラスを両手に添え、青年は恥ずかしそうに言った。
「素敵。きっと上手くいくわよ」
どうやら待望の来店客は、人生の勝負をかけるようだ。
それでも、玲奈にとっては彼がどうなろうが、関心は薄かった。
初対面の人間であり、なんとなく幸せを掴みそうな雰囲気が気に入らなかった。
「そうだといいんですけど……」
「自信ないの?」
「ありませんよ。今まで付き合ってくれていたこと自体、奇跡的ですし。さすがに結婚までなると、相手は重たく感じて愛想を尽かしてしまうかもしれません」
自分でプロポーズをすると言っておきながらこの様か。
玲奈は彼に気付かれないよう、息をそっと吐いた。
ここは君の愚痴を言うところじゃない。キャバクラにでも行っておけ。
そう言いたいのをグッと堪える。
「でも今まで付き合ってくれてたんでしょ? それなら大丈夫だと思うけどな」
「そうですかねえ……」
そういうハッキリしない態度なんだよ。
玲奈は彼の丸まった背中をバシバシ叩いて、尻を蹴飛ばしてやりたくなった。
人生の大勝負で何を腑抜けたことを言っているんだ。
「お付き合いは長いの?」
「高校一年の時からだから、大体六年ぐらいですかね」
「六年も付き合ってるんじゃ、お互い相手のことを嫌ってほど分かってるでしょ」
よくもまあ、こんな男と六年も付き合う女がいたものだ。
同性として玲奈は、顔も知らないその彼女に尊敬すら抱いた。
「そうなんですけどお」
「何がそんなに心に引っかかりを見せているのよ」
「いや、僕は自分に自信がなくて。僕が言うのもなんですが、彼女はとても可愛いんです。大学でも人気があって、『どうしてあんな彼と付き合ってるの?』って、陰口を聞いたことがあるんです」
そりゃあ、そうも言いたくなるよな。表情こそ変えなかったが、玲奈は心の中で何度も頷いた。
「えっと、二人とも大学生ってこと?」
「そうです、そうです。四回生です。まあ、もうお互い就職は決まってるんで、今回プロポーズをしようかなと。結婚を前提にお付き合いをさせていただいて、式自体はまだまだ先でいいかなって」
なんだよ。てっきり式を送るためのプロポーズかと思っていたのに。
玲奈の中で沸々とした怒りが湧いてくる。
「じゃ、じゃあきっと彼女さんは愛想なんて尽かさないと思うわ。あくまで婚約でしょ? 結婚を視野に入れて、今後もお付き合いをさせてくださいっていう」
こめかみの辺りが無意識のうちに力が入ってしまう。
「そうなんですけどお、やっぱり不安なんですよね。僕なんかが婚約をしていいものかって。いくら就職は決まっていてもね。絶対なんて言葉はありませんから。しかも僕の一目惚れから始まった恋なんですよ。コンビニで働く彼女に一目惚れをしましてね。いやあ、お恥ずかしい。あの頃は若かった」
そんな玲奈の様子になど全く気付く様子もない青年。
玲奈の堪忍袋の緒が切れた。
「あんたねえ。いい加減にしなさいよ」
「は?」
「黙って聞いてれば、くだらない話をしてんじゃないって言ってんのよ! そんな話をしたきゃ、キャバクラにでも行ってろ! この童貞!」
「な……ぼ、僕は、ど、童貞じゃありませんから!」
「うるさーい! ここは童貞が来てもいい場所じゃないのよ! お代はいいから出ていきなさい」
奥から箒を手に取った玲奈は、カウンターを回り込み、青年を追い出した。
「全くもう」
また一人きりになった店内。
飲みかけのグラスから、氷が溶ける音がした。
せっかく来た客を追い出してしまった。
彼を追い出し、水を飲むと、冷静になった。
「ま、いっか」
自分はあの人のようにはなれないし、なるつもりもない。
私は私の道を進むだけ。
玲奈はカクテルの入ったグラスを手に取ると、中身を排水溝へ捨てた。
カラフルな色をした液体は、なかなかステンレスの流し台から消えることはなかった。