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島崎遥香 君だけを見ていよう

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「あの、浴衣姿とても似合っているよ」

 

 恥ずかしさで、顔を真っ赤にしながら平野正樹は同級生である島崎遥香に言った。

 言い慣れていないことを言っている自分が、信じられなかった。

 

「あ、ありがとう……」

 

 だが、恥ずかしかったのは正樹だけではないようだ。

 遥香もまた、褒められた気恥ずかしさで、顔を染めている。

 

 真っ赤な顔とは対照的な浴衣。

 青い朝顔が咲いている浴衣は、肌の白い彼女にとても似合っていて、嫌味がなかった。

 

「ヒューヒュー。お二人さん、お熱いねえ」

 

「うるさい」

 

 同級生のヤジに、正樹はハエを払うように手を振った。

 正直言って、行く気のしなかった祭りである。

 けれど、遥香の浴衣姿を見れただけで、正樹は重い腰を上げてよかったと思い直した。

 我ながら単純な人間であるが、彼女の滅多に見れない格好を見れたのだから、仕方がないと言い聞かせた。

 

 

 

 本当ならば、男達だけで行くはずだった。

 それが、急きょ女子を交えて行くことが決まったのは、前日のことだった。

 

 理由は、一緒に行く予定だった男友達が、仲のいい女友達を誘ったからだ。

 彼女たちも祭りに行くとのことで、どうせなら一緒に行こうとなった。

 

 ありがた迷惑だ――話を聞いた正樹は、行かないでおこうかと思い始めた。元から絶対に行きたいと思っていたわけではない。暇潰しで行こうと決めたはずである。

 けれど、そんな正樹の心が変わったのは、女子たちの中に遥香が混じっていると聞いたからだった。

 

 彼女が来るのなら、僕も行こうかな――揺れ動く心。どうしようかと迷っている暇はなかった。返事を曖昧(あいまい)にしたまま、当日を迎えてしまい、正樹は重い腰を上げるしかなかった。

 

 

 

 それがまさか彼女の浴衣姿を見れるなんて。

 一見、無駄だと思えることでも、琴線に触れることはあるのだと、正樹は今日この時を持って思い知らされた。

 

「浴衣って自分で選んだの?」

 

 同級生たちの輪の中で、正樹は隣に並んで歩く遥香に尋ねた。正樹は気付かなかったが、同級生たちが意図的に二人を隣へと並ばせていた。

 

「うん。一応……」

 

 遥香はまた恥ずかしがって、浴衣の袖口で口元を隠した。

 それがいじらしくて、正樹は後頭部を掻いた。

 

「お二人さん、いい雰囲気ねえ。私たち、お邪魔かしら」

 

 同級生のうちの一人が、ニタニタとしながら正樹と遥香のことを見た。

 

「そうだな。邪魔者は消えるか。おい、行こうぜ」

 

 パラパラと二人から距離を取る彼らに、正樹は慌てふためいた。

 

「おい、ちょっと待てよ」

 

「じゃあな。お二人さん」

 

「ぱるるガンバ。あとでどうなったか聞かせてね」

 

 同級生たちは、人の波へと消えて行った。

 

「なんだよ、あいつら」

 

 気を利かせてくれたのは分かる。

 しかし、こんな時に利かせてくれなくてもいいのではないか。

 

 正樹は困ったように遥香のことを見た。

 

「二人っきりになっちゃったね」

 

「とりあえず、回ろうか」

 

「そうだね」

 

 手を繋いでいいものか、悩んだ。

 雰囲気でいえば、繋いでもおかしくはない。

 

 触れそうで、触れない互いの手。

 たまに互いの手の甲がぶつかると、互いに顔を見比べた。

 

 夜店のにおいに包まれながら、二人は人の波を練り歩いた。

 いいにおいのはずなのに、正樹は腹が全くといっていいほどに空かなかった。

 無心で前を歩いていると、やがて会場の出口へと差し掛かってしまった。

 

「突きあたりまで来ちゃった。戻ろうか」

 

 結局、手は握れなかった。

 もしかしたら、今日はずっと握れないかもしれない。

 そう思った正樹が振り向くと、遥香は足を気にしていた。

 

「どうしたの?」

 

「ちょっと足が痛くて」

 

 履き慣れない草履(ぞうり)を履いていたせいだ。

 正樹はそんなところまで頭が回っておらず、いつも通り歩いてしまったことを後悔した。

 

「ごめんぱるる。全然気が付かなくて」

 

「マサ君が謝ることじゃないよ」

 

「ちょっと休もうか」

 

 見れば、石垣が積まれているところを見つけた。

 あそこなら座れるだろう。

 

「あっ、浴衣が汚れちゃうかもしれないから、この上に座って」

 

 浴衣の汚れを気にした正樹は、上に着ていたシャツを脱ぎ、石垣の上に広げた。

 

「えっ、悪いよ」

 

「いいから。せっかく買ったばかりなんでしょ。男らしいところを出させてよ」

 

「うん。じゃあ、お言葉に甘えて。マサ君って意外と紳士なところもあるんだね」

 

 歯を見せて笑う彼女は、やっぱりとても可愛らしかった。

 

「意外とってなんだよ、意外と、って」

 

「えー。いつもどっちかっていうと無気力な方じゃない?」

 

「それはぱるるでしょ」

 

「マサ君もだよ」

 

 もしかしたら、好きな人を無意識のうちに真似ているからかもしれない。

 

「あのさ、さっきも言ったけど、浴衣、とても似合っているよ」

 

 また良くなった雰囲気に、正樹の頭は沸騰しそうだった。

 思わず、先ほど言った言葉を繰り返していた。

 

「もう。そんなに何回も褒めても、何もあげないよ」

 

 ケラケラと笑う遥香。正樹は頭を掻いた。

 

「別に何もいらないよ」

 

「本当に?」

 

 遥香に顔を覗き込まれ、正樹は思わず顔を逸らした。

 

「本当だよ。何もいらない」

 

「無欲なんだね。私は欲しい物がいっぱいあるから、羨ましいよ」

 

 足をブラブラさせながら、遥香は空を見上げた。

 無数の星と、箱舟のような弓なりの月が頭上に輝いている。

 

「ぱるるって意外と強欲家なんだね」

 

「そう。欲しい物だらけで困っちゃう」

 

「一番欲しい物は?」

 

 そう質問をすると、遥香と目が合った。

 猫のように大きくて丸い目。

 

「愛、かな」

 

「ドラマの見過ぎだよ」

 

「バレた?」

 

 二人は声を出して笑い合った。

 

 

 

「そういえば、一つだけ欲しい物があった」

 

 休憩を終え、二人はまた元の道へ戻ろうとした。

 そうすると、正樹は思い出したかのように口を開いた。

 

「何?」

 

 今なら言えそうな気がした。

 

「ぱるると手を繋ぎたい」

 

 ほらね。

 正樹は手を差し伸べた。

 

「えっ、やだ」

 

 が、その手は空を切り、思わず正樹は前につんのめった。

 その姿を見た遥香は、大きな声で笑った。

 

「冗談だよ、冗談。はい」

 

 空を切り、寂しそうな左手が白い手に握られる。

 

「さっきは言わなかったけど、今度はもうちょっとゆっくり歩いてね」

 

「もっと早く言ってくれればよかったのに」

 

 まさか手を繋ぐかどうかで思い悩んでいたなんて、遥香は絶対に正樹や同級生たちに言えなかった。

 

「そういうものは、男の子が先に気付くものでしょ。そんなんじゃモテないわよ」

 

「精進します」

 

 尻に敷かれるとは、このことなのか。

 正樹は、この意味を垣間見たような気がした。

 

 悪くはなかった。むしろ心地良い。

 

 遥香の手は、ふっくらと柔らかく、モチモチとしていた。同じ人間とは思えなかった。

 

「お腹が空いた」

 

「何か食べようよ」

 

 遥香の言葉を聞くと、正樹は空腹を覚えた。

 夜店のにおいが、一段といいにおいに感じる。

 

 同級生たちが、どこかの物陰で自分たちのことを見ているのかもしれない。

 週明けの月曜日、周りに言いふらしているかもしれない。

 

 けれど、正樹にはどうでもいいことだった。

 今は隣に並ぶ、君だけを見ていよう。

 正樹はそう心に決め、人波の中へと遥香と共に吸い込まれて行った。