
「ハシケンの姉ちゃんってすげー美人なんだぜ」
「マジで? 見たことあんの?」
「バカ。見たことなければ美人なんて言えるわけがないじゃねえかよ」
「あっ、そうだよな。でも羨ましいよ。美人な姉ちゃんなんて」
「な。あーあ。俺の妹と交換してくれねえかなあ」
昼休みも半分ほどの時間になった頃だった。
昼食を食べ終え、机に突っ伏している僕の耳にそんな声が聞こえたのは。
正直言って、この手のことは昔から何度も聞いてきた。それこそ耳にタコが出来るほどに。
直接言われることもあれば、今のように会話が偶然聞こえることもある。
もしかしたら、僕にわざと聞こえるように言っているのかもしれないけど。
――羨ましい。
何度その言葉を聞いたことだろう。
何度その言葉を素直に受け入れられない僕自身を見て来たことだろう。
何度その言葉を幻想だと言ってきたことだろう――。
虫刺されの後のぶり返す痒みのように、昼間に聞いた言葉が頭の中で
暇な時間というのは、案外酷なことなのかもしれない。
集中している間は、そんなくだらないことを忘れているのに、暇になればすぐに思い出してしまう。
「僕だって、好きで姉ちゃんがいるわけじゃないっての」
暗がりの中でぼんやりと映る天井に向かって呟く。
「あーあ。僕も姉ちゃんじゃなくて、妹がいればな」
もし、彼らが言うように、交換が出来たとしたら。
いつも奈々未姉にからかわれて、誰に会っても「お姉ちゃんがいそうだね」と言われる僕に、妹が出来たとしたら。
妄想なのは百も承知だ。
僕は理想の妹像を作り上げていると、次第にまぶたが重たくなってきた。
「ねえ、起きてよ。お兄ちゃん」
甘えたような声が聞こえたかと思えば、僕の身体はグラグラと舟の上にいるかのように左右に揺れた。
「早く起きなきゃ遅刻しちゃうよ」
パジャマ越しから伝わる熱。
ほっそりとした小さい手で一生懸命僕のことを起こそうとしてくれている彼女の姿を想像すると、僕は笑みがこぼれそうになる。
「ねえ、ってばあ」
身体がドンドン強く揺れると、僕は閉じていた目をパッと開いた。
「ふわあ。おはよう、絵梨花」
本当は、とっくに起きていた。
けれど、彼女が起こしてくれるのを寝たふりをして待っていたのだ。
「ようやく起きたあ。もう、遅刻しちゃうよお」
僕が起きたことで安堵したのか、咎めているはずの絵梨花の口調は柔らかかった。
「遅刻って、まだまだ余裕じゃないか」
目覚まし時計を見ると、学校へ行くまであと一時間近く余裕があった。
これで部活動でもしていれば、朝練に遅刻なのかもしれないが、僕は何の部活もしていない。
「せっかく朝ご飯を作ったから、食べてもらいたくて」
新婚のような甘い雰囲気は、高波にのみ込まれたようにサッと消えた。
「え? 朝ご飯を作った……」
「うん。温かいうちに食べようよ。ほらほら」
絵梨花に立たせられ、背中を押された僕は自室から追い出されるように出た。
廊下には、すでに異臭が漂っていた。
焼きすぎた魚の臭い。すえた生ごみのような臭い。酢のにおいもする。
リビングへ行くと、異臭の発生源がテーブルの上にあった。
盛り付けされた料理――いや、料理と呼ぶにはいささか無理のある残骸のような物が我が物顔で鎮座している。
「頑張って作ったんだ。さっ、席について。今ご飯をよそるから」
背中をトンと押され、僕は自分の席に腰を下ろした。
座ったというよりも、腰が抜けたように、ストンと椅子に落ちただけだ。
「お代わりあるからね。たくさん食べて」
ご飯を炊いただけなのに、どうして茶碗に山のように盛られた白米からは酢のにおいがするのだろう?
唯一、まともに食べられそうな白米が“これ”で、僕は頭を抱えた。
そう。僕の妹である絵梨花は、料理が苦手だった。
苦手というレベルではない。
産業廃棄物を生み出すレベルなのだ。
にも関わらず、絵梨花は料理を作ることが好きだった。下手の横好きというやつだ。
人には得手不得手がある。
絵梨花は兄である僕が言うのもなんだが、顔はとても整っていて清潔感のある子だ。
頭もよく、品があって、ピアノが上手。
得意分野で勝負をすればいいのに、どうして苦手分野に頭を突っ込んでしまうのか。
「今日は初めて焼き魚に挑戦したんだ。どれくらい焼けばいいのか分からなかったけど、たぶん上手に焼けてると思うの」
グリルで焼けばいいだけの焼き魚。
それなのに、どうして交通事故に遭ったかのように中の
「ちょっと恥ずかしいけど。はい、あーん」
ピンクの箸が伸びて来たかと思えば、炭のような焼き魚にブスリと刺さり、ごと摘み上げた。
視線を上げると、照れたような絵梨花の顔。
兄妹なのに、新婚やカップルのような僕たち。
これを羨ましいという人もいるだろう。
けれど、この光景を見ても同じことが言えるのか。
脂でベチャっとしていると、きっと香ばし過ぎる皮を食べて同じことが言えるのか。
「恥ずかしいんだから、早く口を開けてよ」
目の前でプラプラと揺れる物体。
僕は固く閉じていた口をわずかに開けた――。
「起きろ、童貞」
目を開けると、頬に衝撃が走った。
「いたっ」
飛び起きたせいか、僕の肌は寝起きにもかかわらず、痛みを覚えた。
「起きたわね」
「奈々未姉」
ムスっとした顔で奈々未姉は仁王立ちしていた。
いつも朝に弱い彼女に起こされるのは久しぶりのことだった。
「朝ご飯を作ってあるから食べなさい。寝起きで食欲ないって言ったら殺す」
それだけを言い残すと、奈々未姉はさっさと部屋から出て行ってしまった。
夢とのギャップに僕は頭を掻くと、僕も部屋を出た。
階段を下りると、味噌汁のいいにおいがした。
腹は減っていなかったのに、このにおいを嗅いだだけで空腹を覚えた。
「あれ? 母さんは?」
リビングに入ると、一層そのにおいは強くなった。
辺りを見渡すと母さんがいなかった。
「町内会で掃除があるって早くに出て行ったわよ。昨日言ったこと覚えてないの」
そういえば、そんなことを言っていたような気がする。
だから、母さんに代わって奈々未姉が朝食を作ったのか。
席へ着くと、目の前にはシチューがあった。
奈々未姉はカレーよりもシチューの方が好きだ。
「美味しそう」
「美味しそうじゃなくて、美味しいのよ。さっさと食べなさい」
すでに奈々未姉は食べ始めていた。
僕も両手を合わせると、スプーンを手に取った。
「ん、美味しい」
僕は見逃さなかった。
美味しいと言った瞬間、奈々未姉が勝ち誇ったような顔を一瞬みせたことを。
性格は“ド”が付くほどのSで、僕のことをパシリ扱いする。
ポーカーフェイスで何を考えているのか、よく分からないところがある。
平気で僕のことを童貞呼びする。
だけど、料理が上手な姉。
夢の中とはいえ、架空の妹を妄想してごめんなさい。
僕は心の中で謝罪すると、スプーンになみなみと乗った二口目を口にした。