「さあ、どうするんですか」
余裕の笑みを浮かべた玲奈に、僕は眩暈がしそうなほど、鼓動は高鳴りを見せていた。
左手を見る。
薬指には、結婚指輪が身に付けられていた。
銀色の指環は、夜の街灯を受け、鈍い光を見せている。
「私を取るか。奥さんを取るか。ハッキリさせましょうよ」
彼女は、まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。
声も明るく、どちらの料理を選ぶか訊いているかのような口調なのに、僕は先ほどから寒気がしてならなかった。
「僕は……」
人生に必要な要素の中で、決断力が挙げられる。
仕事にしても、プライベートにしてもそうだ。
男には勝負を決めなくてはならない時がある――。
まだ午前十時前だというのに、早くも気温は三十度を超えていた。
蝉の鳴き声に混じって、子供の甲高い声が聞こえる公園で、僕は彼女を待っている。
松井玲奈――僕が愛する人。
もちろん嫁であるまどかも愛しているし、一人娘の栞も、目に入れても痛くないほどに
けれど、その二人と違う――同じなのだが、またそれとは違うように愛して止まない人が僕に入るのだ。
人はそれを禁断の愛とか、最低な愛だと罵るだろう。僕も彼女と関係を持つ前はそう思っていた。
「お待たせ」
黒い日傘を差した細い女性がやって来た。
夏の太陽に抗うような白い肌。
「遅いよ。暑くて溶けちゃいそうだった」
そして、僕が愛して止まない人――。
男の身体は、五年周期で変わると思う。
二十歳の頃と、二十五の時では、まるで体力が違った。
特に運動をしていなかったこともあるが、階段が辛くなったし、夜更かしも前より減った。
二十五から、三十は、更に違った。
疲れが慢性的にあるし、そのくせ早く起きてしまう日が増えているのだ。
食事の面でも、脂っこい物も選ばなくなったし、昔は食べられていた量の食事を残すことも多くなった。
食事量は減ったくせに、腹だけが突き出るようになった。
支えを無くしたような腹は、だらしなくぶら下がっているかのようだ。
これでは、玲奈に申し訳ないと、僕は一念発起し、水泳をすることにした。
炎天下の中で走りたくなかったし、水泳が膝に負担が少なくて、その割には消費カロリーが高いことをテレビで知ったからだ。
合流した玲奈と屋内プールに向かうと、さすがに日曜日のプールは混んでいた。
ただ、大人が使うプールだけは人がまばらであった。やはり親子連れが多くて、みんな子供用のプールを使用しているのだ。
更衣室で着替え、玲奈のことを待っていると、彼女がやって来た。
「おおっ」
思わず声が出ると、玲奈は恥ずかしそうに身体を隠してしまった。
「あんまり見ないでよ。恥ずかしい」
「いや、よく似合ってるよ。お世辞じゃなくて」
玲奈の身体は、やはり白くて、とても細かった。
彼女と釣り合うまではいかなくとも、それなりに合わせなくてはならないと。
僕はやる気がいい気に出るのを感じ、プールへと飛び込んだ。
「疲れた」
日頃運動を全くしていないのに、張り切り過ぎたようだ。
プールから上がった僕の身体はずっと悲鳴を上げ続けている。
「もう。年甲斐もなく張り切り過ぎだよ。そんなに早く痩せたいの?」
まだ髪が濡れている玲奈からスポーツドリンクを渡され、僕はゆっくりと飲んだ。
昔はそうでもなかったのに、最近では一気に飲むと頭がキーンと痛くなるのだ。
「玲奈に相応しい男にならないと。身体もさ」
玲奈は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに表情を和らげた。
「じゃあ、あと二往復でもしてもらおうかな」
屋内プールを後にし、レストランで食事を済ませると、僕たちは適当に車を走らせた。
東京の夜景。
僕たちはその中を血液のように走り回った。
ドライブの休憩に、僕は台場の海が見える公園を選んだ。
夏の夜は蒸し暑いが、海風は吹き抜けるこの場所は涼しかった。
「身体がもうバキバキだよ」
「それじゃあ明日は筋肉痛で動けないね」
「いや、違う。歳を取ると、筋肉痛は翌日じゃなくて二、三日遅れて来るんだ」
その時を想像すると、僕は憂鬱な気持ちになった。
「そっか。あのね、ずっと言いたかったことがあるんだ」
「何?」
嫌な予感がした。
こんな関係をいつまでも続けているわけにはいかないが、別れるのは嫌だった。
「私の前では指環をしてもらいたくないの」
玲奈に言われ、僕は左手を見た。
薬指には、結婚指輪が嵌められている。
玲奈は続ける。
「それ、海に捨ててくれない?」
「え? 海に」
隣を見れば、真っ黒な海が波打っていた。
「そう。私を取るか。奥さんを取るか。ハッキリさせましょうよ」
余裕の笑みを見せる玲奈に、僕は頭の中が真っ白になった。
「どうしていきなりそんなことを言い出すんだ」
「どうして? うーん。私がわがままな女になったから、かな。さ、選んで」
「納得がいかないよ。なんで今になって、そんな……。決められないよ」
僕の言葉に、玲奈は情けないといわんばかりにわざとらしく溜め息を吐いた。
「優柔不断ね。それでよく私に愛してるなんて言えるわ。簡単な話じゃない。指輪を投げ捨てれば、私を選んだことになる。指輪を投げ捨てられなければ、奥さんを選ぶことになる。子供でも出来ることよ」
「そうだけど……」
指環に触れたまま、僕はもう一度海を見た。
比較的穏やかな波だったが、回収は出来そうにない。
「選べないの?」
「……すまない。選べない」
僕には、どうしても選べなかった。
俯く僕の前にあった影が遠ざかっていく。
「おい、どこへ行くんだ」
顔を上げると、玲奈がスタスタと歩いて行ってしまうところだった。
彼女のいく先は闇が広がっている。
「私は結局選んでもらえなかったってことでしょう? だったら、必要ないのよ」
「待て。そんなことはない。おい、待てって」
暗闇に飲み込まれていく玲奈。
僕は必死で追いかけようとするが、どんなに走っても彼女との距離は開いていくばかりだった。
「玲奈! 玲奈あ!」
跳ね上がるように起き上がった僕は、辺りを忙しなく見渡した。
どこからどう見ても、自分の家だ。
傍らには、栞と奈和が不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「……夢?」
「パパが起きたあ」
「起きたあ」
僕が起きたことに満足をしたのか、二人の娘たちは嬉しそうにはしゃぎながら部屋から出て行った。
早鐘を打ったかのような心臓を抑えながら、僕は汗まみれの身体で起き上がった。
タイマーをセットしておいたエアコンはすでに停止をしていた。
僕はすぐにリモコンでエアコンを作動させた。
カーテンが開かれた室内は、すでに太陽が照りつけていた。
今日も暑くなりそうだ。
これが夢で良かったと思う反面、もう別れてずいぶんと日が経つのに、未だ夢に出て来てしまうことを呪った。
自業自得なのは百も承知だ。これは家族を裏切った僕への罰である。
僕は左手を見た。
薬指には、結婚指輪が嵌められていた。
僕は右手で指環を摘まみながら、溢れ出て来た涙を止めることもせずに、静かに泣いた。
景色がぼやける中で一滴の涙が、指環に落ちるところが見えた。